サブカルチャー論B「粟津潔 デザインになにができるか」

<授業風景>

先月は2週に渡ってサブカルチャー論B内で「サブカルチャー=民衆のカルチャー」と訳し昭和の時代、常に「民衆」に向き合ってきた唯一無二のグラフィックデザイナー粟津潔の仕事について講義を行いました。ゲスト講師に粟津潔のご子息粟津ケン氏を迎えて対談形式で授業を進めていきました。
今回はこちらの講義のコーディネート兼司会を務めた熊澤から授業の概要を紹介します。

まずは、2019年に金沢21世紀美術館で開催された「粟津潔 デザインになにができるか」について展示の概要を簡単に説明していただき併せて粟津潔の生い立ちについても触れました。(粟津ケン氏は本展覧会の監修を務めています)1歳で父親を亡くし、戦争を経験したのちに焼野原で路地にロウ石で絵を描くなどゼロからの出発とも言える少年時代を過ごします。その後は、当時の山手線に朝から晩まで乗車し人々の様子をデッサンしながら独学で絵画を学び、20代前半で映画ポスターを描く仕事を得られるようになったのでした。
25歳の頃には、デザイナーとしての初期作品「海を返せ」が1955年日宣美展グランプリを受賞し、その作品を起点に原水爆禁止運動や反戦活動など「民衆のための」デザインを継続していきます。

粟津潔はあらゆるジャンルを越境していきます。映画・舞台・音楽コンサートのポスターのデザインから始まり、「環境」もデザインの対象であることを言及し、更には万博開発計画や黒川紀章が中心となった集団「メタボリズム」への参加など建築デザインにも携わり「環境デザイン」を実践していきました。

あらゆるジャンルを越境していく姿勢は、このデザイナーが持つ強い好奇心が起因しています。
影響を受けたアーティストは、リトアニア生まれの画家ベン・シャーンを始めスペインのガウディ、バウハウスの時代を代表するパウル・クレーやカンディンスキー、北斎・英泉・芳年など江戸時代を代表する絵師と、あらゆる時代や国境を越えた人物たちです。

またブックデザインの仕事については、その本の内容を深く探求することで雑学になり、多くの影響を受け「ブックデザインはデザインの神様であり、ご本尊である」と粟津潔自身が語っています。詩集・小説・民話集・絵本などあらゆる種類の本の装丁を手がけ、「季刊FILM」や「デザイン批評」などでは編集にも携わりました。

同時代の人物との協働も多くありました。寺山修司とは詩集の装丁から始まり、映画・舞台のポスター更には映画の舞台美術デザイン、主催する劇団天井桟敷が所有する劇場「天井桟敷館」の建築デザインまで多くの仕事を共にしていきました。他には詩人・批評家の富岡多恵子、映画監督の勅使河原宏・篠田正浩まで様々な分野の才能との仕事を重ねていきます。

晩年は象形文字に魅せられ、毎朝書写を練習する日々を過ごし日本の文字文化に深く傾倒していきました。
80年代は絵画・版画も描き始めます。それまでに写真も多く撮り溜め、自ら映画監督を務めるなどあらゆる媒体と親しみながらその創作活動の幅を広げていきました。その広大な視野はデザインを通した宇宙とも言えます。

粟津潔の周りには常にことばの力が潜んでいました。それは人との会話から出てくるものであり、詩であり、映画のセリフであり、街頭のポスターのキャッチコピーと様々に形を変え現れました。最後に、粟津潔と同時代を生きた美術評論家の針生一郎氏が残した一言を粟津ケン氏が紹介して下さりました。

「芸術は芸術からは生まれない。芸術をこえた生活のたたかいの中からこそ生まれる」

近年のBLACK LIVES MATTER運動など再び「民衆の力」が世界中で注目される世の中になりました。本講義では少し前の時代の話ではありますが、デザイン界に大きなインパクトをもたらした粟津潔についてご子息の粟津ケン氏と共に「民衆とデザイン」について現在進行形で考えるまたとない機会に恵まれました。ZOOMを通してのオンライン講義でしたが、パソコンの画面上でもそのデザインは強烈な印象を持った様子で、学生からは「この講義を通して、デザインは人間の生き方を教えてくれるものと知った」「今後の日本を見つめなおす機会になった」と言った感想コメントも寄せられました。

「民衆」ということばが日常では久しく見られないあるいは感じられないこの時代に、いかにこの世の中をデザインするのかを新たな世代に問いこの講義を終えました。正しく「デザインになにができるか」なのです。

(熊澤)