現代教養学科ブログリレー -志摩先生- 出張先の写真を振り返って

現代教養学科の志摩です。

来週あるバルト3国とポーランドについての講演の準備のために、現地の写真を見返していました。毎年、この時期は現地に滞在して研究の時間を過ごしていましたが、今年は、コロナ禍で現地へは行けず、メールで駐日ラトヴィア大使とやりとりをしたりして、来年のことを練っているところです。2021年は、日本がラトヴィアを正式に承認してから100年なのです。

さて、今回の講演では、バルト3国とポーランドをどのような繋がりから紹介したらよいか、と、考えているところです。その中で、昨年、ゼミ生2名が同行した現地調査で訪問したリトアニアを少し紹介しましょう。

まず、紹介したいのは、クライペダというリトアニア唯一の港町です。長らくドイツ語名メーメルと呼ばれていました。13世紀にドイツ騎士団が建設し、その後、プロイセンとなっていた地域にあります。第一次世界大戦後にリトアニアが独立すると、リトアニアの領土となりましたが(1923年)、多数暮らしていたドイツ人住民はドイツ復帰運動をおこし、これを利用して、ナチス・ドイツはこのメーメル地方を軍事占領した。第二次世界大戦後には、再び、リトアニア領となったところです。ドイツ風の街並みが残っています。

 

クライペダの港

 

クライペダの町

 

このクライペダから小さなフェリーに乗船して10分程度で対岸のクルシュ砂洲に到着します。この砂洲は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。全長98キロメートルの砂洲の中でも、ニダという町は、ドイツ時代から保養地として知られ、ドイツ人の作家トマス・マンの別荘も残されている。並ぶ家は可愛くのんびりした気持ちになる今も保養地です。

 

ニダの家々

 

クルシュ砂洲(ニダからの眺め)

しかし、ここを少し進めば、そこは、ロシアのカリニングラード州です。砂洲上に国境があり、林をうろうろしていて、ロシアに迷い込まないように気をつけなくてはと、少し緊張する場所でもあります。

クルシュ砂洲(遠くに見えるのはロシア領?)

 

クルシュ砂洲の林(実際にどんどん歩いていると方向がわからなくなり、学生と迷子状態)

 

クルシュ砂洲のロシア側のカリニングラード、これは、かつては、プロイセン、そしてドイツ帝国の領土であったケーニヒスベルクという都市でした。ドイツの哲学者カントが一生を過ごした場所として有名ですが、現在は、ロシア領の飛び地リトアニアとポーランドに挟まれた場所となっています。

次に紹介するのが、トラカイ城です。ここは、リトアニアが中世最大の版図を誇っていた時代のリトアニア大公のお気に入りの城でした。初めてここを訪れたのは、1992年、ソ連からリトアニアが独立を回復した直後で、廃墟の修復の基金が集められていたころでした。冬のトラカイ城は、湖が氷、白い氷上に浮かぶ中世の城の風情です。

 

中世の城トラカイ

 

最後に、首都のヴィルニュスを紹介します。リトアニアは、ポーランドと同君連合を組んでいた歴史をもち、カトリック教の信仰の篤い国です。

ヴィルニュスのナポレオンが気に入ったと伝えられる聖アンナ教会のすぐそばに立つ大きな彫像は、ポーランドの愛国詩人アダム・ミツキェ―ヴィッチです。リトアニアに人々にとっても愛国詩人、つまり、当時は、ロシア帝国領となっていたこの地域ですから、国境もなく、現在のベラルーシの人々、ポーランドの人々もこの地域に共住していたのでした。

このあたりをうろうろしていると、境界を超えて移動することが自然であっただろうと納得がいくものです。

バルト3国では、移動の主な手段はバスです。初めてこの地域を訪れたときは、バスや電車は、木のベンチであることを思い出しながら、いまは快適なバスでの移動ですよ。ぜひ、出かけてみてください。多文化の融合を感じることができると思います。

 

バス・ステーション