歴史

この像は何を意味しているのでしょう [2017年11月17日(金)]

 建畠覚造は1919年に東京に生まれ、日本の彫刻界では「抽象表現のパイオニア」といわれる人で、父親は同じように彫刻家の建畠大夢。長男として生まれ、東京美術学校彫刻科を卒業後、渡仏しました。1962年から多摩美術大学彫刻科に努め、1966年から教授となりました。

 東京文化財研究所のデータベースによると1967年に第10回高村光太郎賞を、1981年には第12回中原悌二賞を、また、1983年にはヘンリー・ムーア大賞展優秀賞を受賞。神奈川県や和歌山県のギャラリーや美術館で建畠覚造展も開催され、武蔵野美術大学客員教授となりました。中高で教鞭をとっておられたこともあります。芸術選奨文部大臣賞を受け、2005年には文化功労者に選ばれましたが、2006年に86歳で逝去されました。

 これは、その建畠覚造による「二人」の像です。学園本部前の広場の8号館と1号館の間のプロムナードの入り口に据えられています。中高部父母会から寄贈されたものだそうです。

 建畠覚造の作品には、幾何学的要素と有機的要素が競り合いながらも共存していると言われています。「特集 建畠覚造の世界 明日への模索と実験」(『現代彫刻』56号 聖豊社 1982年)の中で、建畠氏は、自分の作品を見て、「それぞれ見る人によって全然違った考え方をもっていいから、広く考えてもらいたい」と書いています。

 皆さんは、「二人」の像を見て、どんな思いを持ちますか。別の方向を見ている二人の若者。しかし仲良く肩を組んでいます。この二人はどんな関係だと思いますか。肩を組みながら、お互いにどんなことを考えているのでしょうか。皆さん自身は、どのような友達との関係を大切にしていますか。

「歓」の像は今どこに [2017年11月10日(金)]

 正門を入って左手に小さな木陰とベンチがあったのを覚えていますか。そこに1メートル程の像が据えられていました。この一画は、大学9号館が完成して246号沿いの土地の一部も本学が購入したため、正門あたりがより広く使えるようになり、現在改装中です。

 そこにあった像は「歓」と名付けられたもので、現在は大学5号館の中高部よりのグランドの植込みに移動しています。

(大学5号館の中高部よりのグランドに移動した「歓びの像」)
  

 作者は奥田小由女(おくだ さゆめ)氏。旧姓は川井小由女です。1936年の11月26日に大阪に生まれ、ほどなく現在の広島県三次市に移りました。年代は違いますが、たまたま誕生日が私と同じです。東京に展覧会を見に来てそこで人形と出会ったのがきっかけで、創造的な人形作品の制作に取り組みはじめたとのこと。それ以来、数々の美術展や人形展などで受賞や入選を重ね、1972年の第4回、1974年の第6回日展で特選にも選ばれました。その後、銀閣寺の東求堂とつながる弄清亭(ろうせいてい)の襖絵を描いたことで有名で、また、本学の創立者記念講堂に掲げられている「秋嶽晩照」の作者でもある、奥田玄宋画伯と結婚。その後も日展で文部大臣賞や日本芸術院賞を受賞し、1998年には日本芸術員会委員、2008年には文化勲章に次ぐ栄誉である文化功労者に選ばれました。日展常務理事から、2014年には日展理事長となり、現在に至っています。

 「歓」の像は、川井氏の作による木彫の像を拡大してブロンズ像にしたものだそうで、本学の創立50周年(1970年)を記念して、中高の卒業生から贈られました。

(中高部にある「歓」の像の説明書き)

 11月中旬を過ぎると5号館や中高部前の銀杏の葉が黄色に輝き始めます。ぜひ、若い女性のはつらつとした姿を現した「歓」の像を見ながら、学園の秋をお楽しみください。

「楚形昭韻」 [2017年11月03日(金)]

 ブログのタイトルについて、何のことかわかりますか?昭和学園のどこにあるでしょう?

 「楚形昭韻」は、1992(平成4)年の5月2日の昭和女子大学の創立記念日に世界で初めて演奏された編鐘のことで、アメリカのボストンやオーストラリアでも、写真が紹介されました。「世界で初めて」というのは大げさですが、きちんとした楽譜も無く、どのような楽曲をどのように演奏するのかもよくわからない中で、演奏が試みられました。「楚形昭韻」という名前の意味は、「中国の楚の時代にあった形そっくりの昭和女子大学に響く鐘の音」といった意味ではないかと思います。

(昭和女子大学 創立者記念講堂にある楚形昭韻)

 「楚形昭韻」は、本学の記念講堂のロビーに飾られています。編鐘は、音の高さの異なる複数の鐘を枠に吊るした、古代中国の打楽器で、宮廷や上流社会で使われ、権力の象徴でもあったそうです。打楽器ですから、長い棒のようなもので、鐘をついて音を出します。組み合わせる鐘の数は7、13 、16、32など様々のようですが、本学にあるものには、大小43の鐘が3段に並んでいます。高さは3メートル、横幅9メートル、総重量6トンもあり、一番大きな鐘は1個で350キロもあるとか。記念講堂を訪れた人がインスタグラムでも時々紹介しているようです。

 1978年に中国の湖北省で発見された本物の編鐘は、戦国時代初期の諸侯であった曾侯乙墓(そうこういつぼ)から出土したもので、3層の木製の横木に最大153.4cmもある65点の総重量2567kgにもなる大きなものです。1つの鐘で2つの音を出すことができ、音階は七音階あり、音域は5オクターブ半あるのだそうで、中国の国宝に指定されているそうです。日本には編鐘を使用する音楽は伝えられていませんが、13世紀伝来と考えられている本物の編鐘は日光東照宮に保存されているのだそうです。2008年の北京オリンピックでは、中国の古楽器として演奏されたそうです。

 ところで、本学は上海交通大学と交流協定を結んでいて、今年度の3月には上海交通大学と昭和女子大学のダブル・ディグリーを授与される卒業生が出ます。本学からの要請で、記念講堂の編鐘を制作したのは、その上海交通大学付属の中国芸術研究所です。ちょうど1992年は日中国交正常化20周年の年にも当たり、編鐘は、それを記念して上海交通大学とこの年に提携を結んだ記念として本学のために製作してくださったそうです。

 今度、創立者記念講堂に入ったときには、是非、編鐘やその解説を見てください。

秋桜祭のこれ何でしょう [2017年10月27日(金)]

 始まりは、「学芸展覧会」と呼んでいた行事を、昭和32年6月から「昭和祭」と名付けて、大学から高中小学校と幼稚園を含めて、学生・生徒・児童・園児のご家族や恩師、友人などを招いての学園を挙げての行事となりました。この頃、多くの学校がお祭り的な催しとして位置づけ、「文化祭」を開催していました。昭和では、研究発表を行う機会として、各部が統一したテーマのもと、研究発表をしていました。
 昭和40年6月の昭和祭には、三笠宮崇仁殿下がご来校になったという記録もあります。特に日本文学科の『平家物語』の展示を熱心にご覧になり、校庭でのフォークダンスにも参加されたとのこと。
 その後昭和46年、学生運動の影響を受けて、大学の昭和祭が縮小され、平成元年に大学は、「秋桜祭」として、また、附属は「昭和祭」として、同日に別々の企画で開催することとなりました。
 附属の昭和祭は、全校を挙げての充実した研究発表の場となっていますが、大学の秋桜祭は学生がすべての運営を行うものへと成長して、今では毎年、秋桜祭の運営委員に立候補する学生が続き、上級生から下級生へと確立された運営方法が引き継がれています。
 今年も、第25回秋桜祭が11月11日(土)と12日(日)に開催されます。学科や研修グループが日頃の成果を発表する研究発表、模擬店、野外特設ステージでのエンターテイメント、環境デザイン学科ファッションショー、人見記念講堂やグリーンホールでのクラブ・サークル発表やコンサートがあります。
 学園全体の展示や催しをゆっくり楽しむには、一日では足りないくらいですが、バザーや物品販売は特に人気があるので、早めに会場に足を運ぶことをお勧めします。特に全国の支部が参加して名産品や手芸品などを販売する同窓会のバザーや、東明学林や望秀海浜学寮の草花や手作り品の販売を、私はいつも楽しみにしています。

(昨年の秋桜祭で見つけた望秀学寮販売のリース)

 トップの写真は、同じく望秀学寮が販売していたクリップです。皆さんも、2週間後の秋桜祭をどうぞお楽しみに。

学園歌集に見つけた歌 [2017年10月20日(金)]

 昭和女子大学附属の中高等部や初等部の卒業生は、学園歌集を各自が持っていたことを記憶していると思います。残念ながら、2003年頃からは、大学では学生に配布しなくなってしまいました。附属では、毎年、生徒や児童に配布しているそうです。
1999年の「学園歌集」の巻頭言に、次のように書かれています。

 

東京の昭和キャンパスでは、定刻に響きわたるカリヨン(編鐘)のメロディーで1日の生活が始まり、進行し、やがて夕べの帳が静かにおろされてゆくしきたりになっている。
(中略)
そのカリヨン(Carillon)の中央部にある4個の鐘の表面にはBe a light to the World(世の光となろう)という学園目標がくっきりと刻まれている。後輩たちの学園生活を健かで豊かなものにしてほしいと希う先輩たち(光葉同窓会)のプレゼントとして、1984 年にオランダで製作されたものである。(最後に時報を告げる大鐘は、100年前のアメリカ製チャーチ・ベルである。)

 

 その歌集の中にとても珍しい歌を発見しました。A Dream Upon the Moss Hillというタイトルの歌です。2016年10月7日にご紹介した昭和ボストンにあるモス・ヒル宣言に曲をつけたものです。

(学園歌集に掲載されている楽譜)

 作詞は、元理事長の人見楠郎先生。作曲者は福浦理保子さん。残念ながら私は、福浦さんを存じ上げません。どなたかご存知の方は是非、お教えください。

 さて、昭和ボストン校は、来年、創立30周年を迎えます。30周年を祝って、この歌を歌うかもしれませんね。これまですでに15000名に及ぶ昭和の学生、生徒、児童が 昭和ボストン校で学びました。毎年、ボストンで研修をする人が増えています 。ボストン研修経験者数は、これまですでに、全卒業生の1割以上に及んでいます。これからその数はもっともっと増えることでしょう。まだ、昭和ボストンを訪ねたことが無い方は、是非、研修に観光にお出かけください。

道の像 [2017年10月13日(金)]

 いつもの通学や通勤で通る道だけでなく、ゆっくりとキャンパスを散策しながら、普段通らない道を歩くと、歌碑、石碑、ブロンズ像などがいろいろなところにあるのを見つけます。
 今日はその中で、「道の像」について、書いてみようと思います。「道の像」は西門から入って、左手の中高部の1号館に沿って作られている鯉の池の奥、中高部の玄関の近くに置かれています。作者は「現代の円空」とも評され、静寂の中にも温かさのある作風を持つ、木彫りの彫刻家、長谷川昻(はせがわこう)氏です。千葉県富津市にある東京湾観音の原型も作っています。昭和女子大学が千葉県に所有する望秀海浜学寮のある館山市と同じ安房圏域にある鴨川市生れで、1962年には、世界美術展で国際グランプリ金賞を受賞し、日展審査員や千葉県美術界会長などを歴任しました。

(学園にある「道の像」)

(木彫りの原作)

 原作の「道の像」そのものは、ナタによる木彫りの作品です。ナタで制作すると言っても、木材をすべて鉈(ナタ)だけで彫るわけではなく、先の丸い鑿(のみ)で彫った縞(しま)模様の彫り痕(あと)を規則正しく残す木彫技法のことを指すそうです。ふつうの木彫も、必ずこの状態の工程を経て仕上げをするのでそうですが、ナタによる木彫りは、仕上げ前の段階でとどめた状態のように見えるので、未完成作品だと考える人もあるようです。彩色も施されず、素地のまま仕上げてあるので、荒々しく粗野な印象を受けますが、力強く独特な持ち味を楽しむ人も多いようです。

 中高部前にあるのは、原作をもとに製作し直したブロンズ像です。皆さんに鑑賞していただけるように屋外に置こうと、本学が要請して鋳造してもらったものだとのこと。子どもを抱きかかえ、左手はもう一人の子どもの手をしっかりと握った母親が、厳しい冬の道をひたむきに歩む姿を表現したもので、子供たちをしっかりと寒さから守りながら、吹雪の中を、一歩一歩大地を踏みしめて、黙々と目的地に向かって進んでいる母親を私はイメージしますが、皆さんはどうですか。

 ブロンズ像の脇にある長谷川昻氏作自身が書いた詩にはこう書かれています。

道  長谷川昻


みち
嶮俊の道
茫漠のみち
はるかにはるかに
つヾいている

英邁で勤勉で
不屈な先人が
拓いたに違いない

道標には

歩けとだけ
書いてある

(中高部 ブロンズ像の脇にある長谷川昻氏の詩)

祝歌 [2017年05月12日(金)]

 昭和女子大学は今年創立97周年を迎えました。3年後には100周年を迎えます。
 小学校、中学校、高等学校、大学と、普通はあまり自分の卒業年度を覚えていないものですが、本学では、よく覚えている卒業生が多いようです。その理由は、祝歌があるからではないでしょうか。毎年、該当の年が創立何年にあたるかを、少なくとも、入学式、創立記念日、卒業式には祝歌の歌詞に入れて歌うからです。数字の読み方には、少し戸惑うこともあるのですが、今年は、「ああ、きゅうじゅうしちねん」と歌っています。

 昭和15年10月26日に、本学の「創立20周年記念祭」が神宮外苑の日本青年会館で行われたと記録されています。この折に、「創立20周年祝賀の歌」として発表されたのが、現在の「祝歌」です。「校歌」は、日本の国でたとえれば、「国歌」にあたるもので、正式な式典では必ず歌いますが、その他の会合や集まりでは、「第二校歌」とも呼ばれる「祝歌」を歌っています。

(昭和15年10月26日に行われた「創立20周年記念祭」)
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 その作詞は、創立者人見圓吉先生、そして作曲は権藤圓立(えんりゅう)先生です。
 権藤圓立は、宮崎県の延岡市の真宗大谷派の光勝寺に生まれ、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)で声楽を学びました。宮崎県では初の声楽家と言われてます。大正11年、野口雨情と出会い、雨情の媒酌で結婚。夫人である権藤はなよは、童謡「たなばたさま」の作詞者です。大正14年に東京放送局(現NHK)が開局された折には、記念番組で歌曲や童謡を歌い、レコードもたくさん出されています。一方、同時代に、人見圓吉は人見東明として文学界で活躍され、野口雨情とも親交が深く、たとえば、大正9年には「雨情の東京復帰歓迎会」を小川未明、西条八十、窪田空穂などと共に開催したりしていました。昭和女子大学の前身、日本女子高等学院が生まれたのも大正9年。定かではありませんが、権藤圓立とは、少なくとも顔見知りであったのではないでしょうか。

 権藤圓立の自筆の「祝歌」の楽譜と歌詞が書かれた曲譜の写真が、『学園の半世紀』に掲載されています。

(権藤圓立の自筆の「祝歌」曲譜 『学園の半世紀』より)
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 墨で書かれた五線譜はとても珍しいですね。そして、圓立の雅号は「里芋」と書かれています。「リウ」と読むようです。また、昭和38年に行われた光葉会総会では権藤圓立先生の指揮で祝歌を歌いました。

(昭和38年 光葉会総会にて祝歌の指揮をとる権藤圓立先生 『学園の半世紀』より)
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 権藤圓立は、小・中・高校や大学の校歌、応援歌などの作曲も手掛けられ、本学と同じ世田谷にある駒沢大学の校歌も作曲されています。高校野球のTV中継では、出場校の校歌の紹介がありますが、その中に権藤圓立作曲という紹介見ることもあります。昭和の「祝歌」、100年はどのように歌ったらよいのかな、ちょっと心配ですが、これからも力強く歌い続けていきましょう。

校歌 [2017年04月28日(金)]

 本学は、大正9 年9月10日に「私塾」日本女子高等学院が小石川幼稚園の間借り教室で始まり、大正11年3月には、東中野の中野幼稚園の一隅を借りて仮校舎として、日本女子高等学院設立認可申請を東京府に提出しました。そして、その4月に新生「日本女子高等学院」が誕生したと記録にあります。しかし、大正12年9月には関東大震災。何とか倒壊は逃れ、11日に始業式。大正14年3月には、第1回卒業生、国文科4名、英文科4名、附属女学部7名の15名を送り出しました。この卒業式には、先輩が誰もいなかったのはもとより、校歌もありませんでした。

 第1回卒業生の悲願であった本学の校舎がやっとできたのは、大正15年5月のこと。初めて独立した校舎を持つこととなり、同年6月5日に東中野の仮校舎から上高田の新校舎に移転したのです。この新校舎の落成式に校歌が制定されました。昭和の目指す教育の理想が、謳われています。初代理事長、人見圓吉先生が作詞されました。

(大正15年の上高田校舎)

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 校歌の第1節「朝風薫る武蔵野の、緑が丘に春和み、学びの庭の八重桜、色香も清く咲き充てり」では、本居宣長が「敷島の大和心を人とはば、朝日に匂ふ山桜」、つまり、「日本人のこころとは何かと人が尋ねたら、朝日に照り映える自然に咲く山桜のように、純粋無垢な気高い心情である」と謳ったように、「春の武蔵野の丘に緑が映え、気高い日本人の心を表すような八重桜が美しく咲いている」いる。昭和は、そのような清々しく美しい自然に勝るとも劣らない、「清き気品」「篤き至誠」「高き識見」を兼ね備えた女性たちが学ぶ学園でありたいと謳っています。

 第2節「広き世界の学芸と、古今の知徳照り映えて、命永遠なる亀鏡(みかがみ)は、青空高く輝けり」では、向上と進歩が本学の教育の根本であり、またそれらは人生の目的であることも示しています。広く世界と古今の知恵を求めて、永遠の亀鏡(キケイ)、つまり周りの人々の「手本」となるような人材に成長することを目指したいものだと語りかけています。

 第3節「あらゆる者を育みて、そだてあげしは女性なり、女性文化の帆を張りて、海路遙けく漕ぎ出たり」では、女性こそがすべてのものを育て、育むことができるのだから、学問を積み、知識を身に付け、徳を積んで、女性文化の発展のために一歩を踏み出しましょう、と呼びかけています。

(校歌、高女旗、学院旗)「学園の半世紀(昭和46年11月7日発行)」より引用

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 式典では必ず歌う校歌ですが、次の機会には是非、作詞者が校歌に込めた意味も考えながら歌ってみませんか。きっとまた新鮮な気持ちで歌えるのではないでしょうか。

「心を伝える」オルゴール [2017年04月21日(金)]

 オルゴールは、英語ではmusic boxと言います。それではオルゴールという名称はどこから来たのかというと、江戸時代の初期に自動オルガンをorgel、オランダ語で「オルヘル」、ドイツ語で「オルゲル」と読んだことから始まり、今では「オルゴール」と呼ぶようになったようです。日本では、初めのころは「自鳴琴」とも呼ばれていたそうです。

 オルゴールはもともと、懐中時計や指輪に仕込まれた小型のものから始まったそうで、ぜんまい仕掛けのばねや歯車で動かされていました。1815年に世界で最初のオルゴール工場が時計の産地でもあったスイスにできて盛んに生産されはじめ、19世紀になるとドイツにディスク・オルゴールが登場しました。

 昭和学園には、そのドイツで作られたディスク・オルゴールが3台もあるのをご存じですか。望秀学寮、東明学林、初等部にあります。ピン打ちした金属の筒が回るオルゴールはよく見かけますが、ディスク・オルゴールの中でも本学が所有している大型のものは、日本国内にいくつかあるオルゴール博物館まで出かけないと、なかなかその音色を聞くことはできないのではないでしょうか。

(望秀学寮にあるオルゴール)             (東明学林にあるオルゴール)

オルゴール正面      食堂オルゴール①

<望秀学寮 オルゴール曲目>
1.TRAUMEREI AND ROMANCE 2.THE TROUBADOR VERDI 3.CARMEN TORREADOR SONG 4.WEDDING MARCH 5.CONVENT BELLS 6.HOME SWEET HOME 7.LA PALOMA SERENADE 8.WAVES OF THE DANUBE WALTZ 9.THE BARBOR OF SEVILIA 10.PICOLO FANTASIE 11.THE BLUE BELLS OF SCOTLAD 12.KAYA KAYA

<東明学林 オルゴールに添えられている文章と曲目>
1.アヴェ・マリア 2.フニクリ・フニクラ 3.ニューヨークの鐘 4.ラ・トロヴィアータ 5.狩人の合唱 6.春の歌 7.きよし この夜 8.スケーターズ・ワルツ 9.歌劇「カルメン」より 10.ウインザーの陽気な女房たち 11.タクト

 専用のコインを入れると縦に置かれた直径60センチ以上もある大きな円盤形の金属板が回転して、演奏が始まります。ディスクの交換ができるので、11~12曲の演奏を聴くことが出来ます。玄関入ってすぐのところにこのオルゴールが設置されている初等部では、何か良いことをした児童がコインをいただいて、演奏を聴くことが出来るのだそうです。東明学林や望秀学寮では、事務室に行ってお願いすれば、誰でも聞くことが出来ますから、学生の皆さん、そして、卒業生の皆さん、是非、心を洗われるような音色を楽しんでください。

「開講の詞」の由来をご存じですか [2017年02月24日(金)]

本学の式典で、創立者人見圓吉先生の声で必ずお聞きする「開講の詞」。その由来をご存知ですか。実は、私が昭和41年に大学に入学してから昭和46年3月に卒業するまでの間、この詞を聞いたのは、たった1回だけでした。その理由は・・・。

「開講の詞」は本学の前身、日本女子高等学院が始まる前年の大正8年4月に設立された日本婦人協会の「設立趣旨」として配布されたようです。日本女子高等学院が開設された大正9年9月10日からは、その趣意書の詞が本学の建学の精神を表す「開講趣意書」となりました。

人見圓吉先生は、創立50周年の記念式で、「東京の山の手の町を歩いて塾に適当な家を探しました。当時の東京には空き家が多く1時間も歩けば4,5軒位は探し出せたものであります。しかし折角探し出しても帯に短かくたすきに長く、適当な家はなかなかなく、ようやく探し当てたのは1年余りの後のことでありました。その玄関の左側に「日本女子高等学院」の表札を出しました。それが大正9年9月10日で、(開講趣意書が)できたのはその日の午後2時ごろでありました。こうしてわが昭和女子大学の前身はこの世に生れ出たのであります。」と話されています。

(「日本女子高等学院」の表札)

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しかし、その後、暫くの間、「清き気品」「篤き至誠」「高き識見」の「校訓三則」や「真善美」の詞を本学の建学の精神を表すものとして良く聞くようになりました。

『学報』は本学の歴史を振り返るのに貴重な資料となるものですが、昭和45年の創立50周年記念式の記事に、「開講趣意書」として、また、昭和47年6月の第52回創立記念式では現在のように「開講の詞」として掲載されています。このころの学報には、入学式で「開講の詞」を聞いたという学生の感想もあるので、創立50周年以降に、現在のように、日本女子高等学院の「開講趣意書」が「開講の詞」として式典などで朗読され始めたのではないでしょうか。

「日本婦人協会趣旨」と「開講の詞」は、全く同じではありません。以下の「開講の詞」の該当箇所を赤字にし、青字で「日本婦人協会趣旨」を入れてみます。ちなみに、大正9年9月発行の坂本由五郎元本学教授が編集発行人であった雑誌『抒情文學』第2巻7号にも「日本婦人協会趣旨」は掲載されていますが、以下で参考とした『学報』の記載とは少し異なる部分もあるようです。

 

開講の詞開講趣意書

夜が明けようとしてゐる。

五年と云ふながい間、世界の空は陰惨な雲に掩はれて、人々は暗い檻の中に押し込められて、身動きもできなかった。けれど、今や、一道の光明が空の彼方から仄めき出して、新らしい文化の夜が明けようまさに明け放れよう)としてゐる。人々は檻の中から這ひ出し、閉ぢ込められた心を押し開いて、文化の素晴らしい暁光)を迎へようとしてゐる勢ひ立ってゐる)。    

夜が明けようとしてゐる。

海の彼方の空にも、わが邦土)の上にも、新らしい思想の光が、ながい間漂うてゐたふてゐた、)くろ雲を押し破って、眩しい目眩しき)ばかり輝き出そうとしてゐる。それを迎へて叫ぶ人々の声をきけ聞け)。霊の底まで鳴りひびく声を、力強いその叫びをきけ聞け)。既に目ざめた(目覚めた)人々は、文化の朝を迎へる可く、身にも心にも、仕度が十分調ってゐる。 

夜が明けようとしてゐる。

われ)の友よ。その愛らしき眼をと)たまま、逸楽の夢をむさぼる可き)はもう既に去った。われ等は、まさに来る文化の朝を迎へるために、身仕度をとり急がねばならぬ。正しき道に歩み出すために、糧を十分にと十分の糧を採)らねばならぬ。そして、目ざめ目覚め)たる婦人として、正しき婦人として、思慮ある力強き婦人として、文化の道を歩み出すべく、互ひに研き合はなければならない時が来たのである。

大正九年九月十日                日本女子高等学院

(開講の詞)

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初代理事長の人見圓吉先生がご逝去されたのが昭和49年2月ですから、私たちが式典でお聞きする圓吉先生の肉声は、その前に録音されたものだということになります。また、昭和55年2月の創立者記念講堂の完成と共に、「開講の詞」の碑が入口の壁に掲げられましたので、圓吉先生の肉筆の詩も録音よりも前に書かれていたものでしょう。

次に「開講の詞」を聞く時には、ぜひ、本学の前進である日本女子高等学院の扉が開かれるにあたって、詩人でもいらした人見圓吉先生がうたいあげた力強い「開講の詞」の原文にも思いを馳せてみたいと思います。