雨音の風景

世界遺産である蘇州の拙政園には「聴雨軒」という建物があります。「軒」というのはもともと
貴人の乗物を指しますが、ここでは雨音を聴くために作られた屋根付きの空間を意味します。
建物の回りには大きな芭蕉が植えられており、「雨打芭蕉」という名曲に象徴されるように、
芭蕉葉に打ち付ける雨の音は、典型的な音の風景なのです。もちろん植えられている植物が芭蕉
でなければ、この部屋を「聴雨軒」と命名することはありません。

「聴雨軒」

「聴雨軒の周辺」

ふと「芭蕉野分して盥に雨を聴く夜かな」という松尾芭蕉の句が頭を過ります。三十八歳の時、
深川芭蕉庵での感慨を詠んだ一句です。野分は現在の台風です。庵の外では、激しい台風で芭蕉
の大きな葉がしきりにはためき、庵の内では、雨漏りを受ける盥に絶え間なく雨の滴りが落ちて
います。風の音と雨の音の二重奏に耳を傾けながら、芭蕉は自らも野分に揺れているような侘しい
境涯を噛みしめています。本来、庵外の芭蕉葉に聴くべき雨音を、庵内の盥に落ちる雨水の音に
聴き入るという趣向で、わび住まいの寂寥感が漂いながらも、雨漏りを楽しむ芭蕉なりの風流を
感じさせます。

ところで、『伊勢紀行』によれば、この句の前に

老杜茅舎破風の歌あり、坡翁ふたたび此の句を詫びて「屋漏」の句を作る。其の夜の雨を芭蕉葉
にききて、独り寐の草の戸

という前書があります。これによって、芭蕉は杜甫、蘇東坡の詩を念頭にこの句を作り、とくに
杜甫の「茅屋為秋風所破歌 茅屋秋風の破る所と為る歌」からヒントを得ていることが分かります。
杜甫の詩は七言を主にした古詩で、五十歳の時、成都で詠まれた作です。この詩では、台風で飛ば
された屋根の茅が悪童たちに持っていかれ、それを取り戻そうと追いかけた杜甫は力が尽き、
ため息をつきます。諦めて家に戻ってみると雨漏りがひどく、とりわけベッドの辺りには、

牀頭屋漏無乾處  牀頭 屋漏れて乾く處無し

雨脚如麻未断絶  雨脚 麻の如く未だ断絶せず

という有様でした。芭蕉研究の先学が指摘したように、二十句もあるこの七言古詩に芭蕉が興味
を示したのはこの二句だけではないかと思います。実は、杜甫の詩はこれで終わらないのです。
雨漏り描写の後に大きな夢を語りはじめます。頑丈で広大な建物をたくさん作って、貧しい人々
が台風や豪雨をも恐れず、安心して暮らせるような国づくりはできないものだろうかと訴えます。

このように、芭蕉の句には野分に揺れるようなわが境涯の侘しさを感じさせながらも、杜甫の詩
とは全く無縁のところで、盥に落ちる雨漏りの音に風流の面白さを見出しているように思われます。
芭蕉も杜甫も雨漏りに注目する点は共通していますが、表現しようとしたものが異なっていることは
明らかです。

梅雨空の続くこの季節、毎日降りしきる雨になかなか気が晴れませんが、古の文人たちの風流を
吟味しながら、雨の音に耳を澄ませてみると、また違う感覚が生まれてくるのかも知れません。

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