太郎傘、次郎傘のお話 [2017年02月03日(金)]

 小学校から大学までに受ける授業の種類は、多分400を超えるのではないかと思います。たとえば期末試験の前になると、かなり詳細まで授業の内容を覚えていたはずなのに、時が立つと、はっきりとその内容を覚えている人はあまりないのかもしれません。逆にそれは、その内容が消化されて、それぞれの知識となって身についているということなのかもしれません。
 
 それに比べて、先生が授業中やその他の時間に話してくださったエピソードは意外に記憶に残るもので、昭和の卒業生が集まるとそういった話に花が咲きます。ここでお話する「太郎傘、次郎傘の話」も、覚えている人の多い話の一つです。大学の校舎のあちこちにある傘立てに入っている置きっ放しの傘を見ると、いつもこの話を思い出します。
 
(学内の傘立て)
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 思いがけず雨が降り出した時に誰でも使うことができるように、ある店の前に古い傘が2本置かれていました。駅の近くにある店なので、急な雨の日にはその傘が便利に利用されていました。そして次の日か、少なくとも2,3日後には、いつも2本の傘はそこに戻されていて、また、突然の雨の時には、他の人が借りていきました。ところが雨がしばらく降らなくなったある日、ふと傘立てを見ると、こんな張り紙がされていました。「太郎傘がいなくて、次郎傘が悲しんでいます」。古くなっても役に立っていた2本の傘。そのうちの1本が戻ってこなかったのです。でも、しばらくして戻ってきました、きれいに折りたたまれて、次郎傘のとなりに入っていました。そして張り紙には、「太郎傘が戻ってきて、次郎傘も喜んでいます。また一緒に皆さんのお役に立てます」と書かれていました。
 
 善意で傘を店の前に置いていた店主の思いも素晴らしいし、太郎傘に早く戻ってきて欲しいという気持ちの伝え方も、多分天日に干してきれいにたたんで傘が戻されたことも、心温まるものです。
 
 1月30日の読売新聞の夕刊に「傘の忘れ物2週間で処分」という記事がありました。東京都内では雨の日に1日約3,300本もの傘の落し物が届けられるのに、返還率は1%程度が続いているとのこと。それまで3か月だった拾得物の保管期限を2007年から、安価なものについては2週間での処分としたり、ホームページで落し物の検索ができるシステムを導入したり、着払いで自宅に配送できるようにしているのだそうですが、それでも保管場所はいつも満杯とのこと。ハンカチでさえ返還率は1.6%なのに、傘はかわいそうですよね。大量消費の時代となり、物への執着心が薄れ、探すより買う方が楽?だと思うのでしょう。
 
 少し前までは、忘れ物で保管期間を過ぎた誰も取りに来ない傘を置いている電車の駅もありました。初めのうち、傘立てにはたくさんの傘が置かれていますが、残念なことに、そこに返却する人も少なくなったためでしょうか、それとも、500円程度払えばどこでも傘が購入できるので、古い傘なんか使いたい人がいないからでしょうか、最近は置き傘をしている所も少なくなってしまったようです。
 
 皆さんの傘は学内のどこかに置きっ放しになっていませんか。古くてもまだ使えそうな傘が埃にまみれて傘立てに残っていたり、同じようなビニールの傘が何本も乱立していたりするのを見ると、この傘はきっと、はじめは喜んで使ってもらっていたに違いないのにかわいそうだなと思ってしまうのは、私だけでしょうか。
 
 バブルの時代に一度は姿を消したように思えた、物を大切にする日本古来の文化をもう一度取り戻したいと思いませんか。

何の花が咲くのかな [2017年01月27日(金)]

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 大学の正門を入って校舎に向かう歩道に沿って、植木鉢が並んでいます。いつも、つぼみのついた折々の季節の花を、学園の植栽を管理する方たちが植えてくださいます。花が開いてからしばらくの間、あちこちに並べられた鉢植えの花は、そばを通る人の心を和ませてくれています。私は特に、11月の秋桜祭の頃、可憐なコスモスの花が咲き揃うのを楽しみにしています。

 ところが先週の初めごろから、鉢に黒い色のネットがかけられ、鉢を覗くと土しか見えません。土をなじませているのか、それとも何か種を蒔いてすぐに芽が出るのかなと、毎日鉢を覗いていましたが、何も変わったことはありませんでした。そして、先週末には何やら小さな緑色の双葉が出てきたのです。何の花だと思いますか?
 
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 実はこの鉢にははじめ、ネットをかけず沢山の種を蒔いたそうです。ところが芽が出るとハトがたくさん寄ってきて、すべて食べてしまったそうです。苦肉の策としてネットをかぶせたとのことでした。
 
 だんだんに成長していますが、まだ日中の気温が上がらず、大きくなりませんね。一体どんな花が咲くのかとても楽しみです。 3月の卒業式から4月の入学式には黄色の花が咲き揃うそうです。何の花なのかは、下の画像がヒントです。

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 種を蒔いて、花が咲く時を待つのは、とても楽しいことです。花が咲くのを待つ気持ちは、よく人生の生き方にもたとえられます。
 
 2週間ほど、植木鉢を覗いていて、考えたことがあります。
 
 同じように蒔かれた種であっても、運良くハトに食べられなかったとしても、咲く花の大きさや色はそれぞれ違います。種そのものが違っていることもあるでしょう。土の栄養分、水やりの量、そして日照時間もきっと違っているのでしょう。どんな花が咲くか…大きく力強い花、他の花の陰に隠れて可憐に咲く花、他より少し色の薄い花、違う方向を向いて咲く花…。それぞれに、種から花が咲くまでの間の様々な条件に影響を受けて決まるのでしょう。土の栄養分の配合、水やりの時間や量、そして日照時間や方向など、一つ一つの花が咲くまでの環境はそれぞれ違います。もしかすると、となりの大きなつぼみに隠れて、太陽の光を十分に受けることができず、最後にやっと開いた小さい花も交じっているかもしれません。
 
 なんだか、きれいに咲き揃った花だけを見て、○○の花は美しいと感激するだけでいいのかどうか…。勝手に決めつけては申し訳ないように思えてきました。いろいろな悪条件の中で、やっと開いた小さな花は、本当は他の大きくてきれいに咲いた花よりずっと頑張り屋さんの花なのかもしれませんね。見えるものに隠れた、見えないものを見なければ、本当の良さはわからないのかもしれません。

ユメミルミズ [2017年01月20日(金)]

 昭和女子大学オリジナルのミネラルウォーターがあるのを知っていますか。名前は『ユメミルミズ』。500ミリリットル、1本90円です。第1弾には、夢みる女の子と空を見上げて夢見る海の水をイメージしたラベルがついていました。これは環境デザイン学科の学生がデザインしたものです。一人一人の夢の実現を応援したいという気持ちを込めてデザインしてくれました。
 
(以前のボトルの写真)
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 今年新しく、第3弾が登場しました。このラベルは環境デザイン学科2、3年生6名がデザインしてくれました。良く見ると昭和の校章の桜が素敵ですね。
 
(新しいボトルの写真)
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 キャンパス内の自動販売機で是非、お求めください。学生の間でも大人気で、炭酸類や甘いジュース等を飲むより、こちらの方が好まれているようです。
 
 さて、このような学生の活動は、デザインの分野でも、BMW との協働プロジェクト、学内のサイン計画など数えればきりがありませんが、その他にも、資生堂と共創の美容健康食品の販売戦略の提案、研修学寮のある神奈川県大井町の地域活性化振興策の一つとして特産物を生かしたお弁当作り、信用金庫のご協力の元、東北復興を目的とした情報誌の発刊、大学の地元三軒茶屋の商店街とコラボした街を元気にするプロジェクトなど、今ではその数は累計で100件を優に超えています。実社会に触れ、実践力を磨くこうした企業・地域連携プロジェクトの機会を得て学生達は、課題を発見し、その解決に挑み、果敢なコミュニケーションを試みて主体的に取り組むことで、企業や社会にフレッシュな感性や発想を提供しています。

 毎日更新される本学の公式Facebook では、学内外の学生のさまざまなプロジェクト活動を紹介しています。是非、皆さんも本学のFacebookをクリックしてみてください。

昭和ボストンでの成人式 [2017年01月13日(金)]

 本学では、ボストン留学中に成人を迎える学生の為に現地で毎年成人式を行っています。
 
 今年は、1月6日㈯にボストン留学中の学生202名の成人を祝って、在ボストン総領事道井緑一郎氏をご来賓としてお迎えし、昭和ボストンのレインボーホールで成人式を行いました。日本からいらした学生のご父母やご家族が21名も参加してくださり、まず坂東理事長からのメッセージを昭和ボストンのシュワルツ学長が日本語と英語で代読され、写真にあるような式次第に沿って挙行されました。一生の思い出に残るような、和やかな中にも厳粛で素晴らしい成人式でした。式の後には、寮のウイングごとに記念撮影を行いました。

(式次第)
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(Wing1の学生とともに)
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 お昼は、カフェテリアとサンルームで総領事や式に列席したご家族、教職員と共に202名の学生がランチョン、そして夜は、162年の歴史を持つボストンで最も古いホテルの一つであるOmni Parker Houseで祝賀会が行われ、成人式を迎えた学生たちにとっては特別な一日となりました。
 
 デザートでいただいたBoston Cream Pieは、このホテルが発祥のケーキで、美味しい料理で既にお腹が一杯のはずなのにフォークが止まらず、私もとうとう全部平らげてしまいました。また、このホテルの1階のレストランは、John F. KennedyがJacquelineにプロポーズをした場所として知られていて、そのテーブルが昔のまま残っています。今でもプロポーズするときに、その座席を予約するカップルも多いのだそうです。アメリカの中でも特に古い歴史と伝統を持ち、アメリカ文化発祥の地であるボストンに留学できる本学の学生は、本当に恵まれていますね。
 
 私が附属中高部の教職に就いてしばらくしてから、休職してサンフランシスコ州立大学に留学した時には経済的余裕もなく、学期の初めに購入する一番安いセットのミールクーポンを1学期間うまく使って、食事代をやりくりしました。ミールクーポンが不足し始めるのはいつも学期末の試験やレポート提出の時期。一番安い朝食でサンドイッチに好きなだけ具を詰め込んで、一番大きなコップに飲み物を入れて、部屋に持ち帰り、朝、昼、晩の3食をそれで済ませました。それでも勉強できることが嬉しかった。図書館で思う存分資料を調べ、レポートや試験準備。その学期に学んだことを一つ一つ思い出して、これはどうしてこうなるのだろうか、これとあれはどう違うのかなどと、自分の納得のいくまで勉強ができたことが何より嬉しかったです。もちろん図書館で資料を調べて勉強するだけが学びではありません。私たちが経験するすべてのことについて、これまでは、まるで霧の中にあるようにぼんやりとしか見えなかったことが、はっきりと見えるようになることは、何とも楽しいことなのです。学生時代、素晴らしい機会に恵まれてボストンで学ぶあと2年間に、是非、是非、この喜びを学生の皆さんにも共有してもらいたいものだと願って202名の新成人の誕生を祝いました。

それでも山に登り続けた田部井さん [2016年12月22日(木)]

 田部井淳子さんは、英米文学科(今の英語コミュニケーション学科)を1962(昭和37)年に卒業された本学の同窓生です。病気でご療養中のところ、10月20日にご逝去されました。本当に残念でたまりません。

 1939(昭和14)年、福島県田村郡三春町にお生まれになり、大学卒業後、社会人の山岳会に入会、谷川岳や日本アルプスなどの冬山や岩登りに次々と挑戦されました。そして、1975(昭和50)年には、世界最高峰のエベレストに女性として世界初の登頂に成功されたのです。キャンプで雪崩に巻き込まれて負傷した時、隊長は「下山」を命じたのにも拘わらず、「私は登り続ける」という固い意志で、どうしても登頂を譲らず、歩みを止めなかったそうです。35歳の時でした。エベレスト登頂で、男社会だった登山界をも変えた、世界を変えた方でした。

 エベレスト登頂成功で、一躍世界中にその名を知られることとなり、1988(平成10)年には、第1号の福島県民栄誉賞を受賞。環境問題にも取り組み、エベレスト初登頂者のエドモンド・ヒラリー卿の呼びかけに応えて、1990(平成2)年には山岳環境保護団体の日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト(Himalayan Adventure Trust of Japan=HAT)を創設して代表に就任。国内外で清掃登山や植林などの活動を続けられました。

 さらにその後も、キリマンジャロ、アコンカグア、デナリ(マッキンリー)、ビンソンマシフ、カルステンツ・ピラミッドの登頂に成功し、1992(平成4)年、欧州の最高峰エルブルース(5,642メートル)に登り、女性初の7大陸最高峰制覇を達成されたのです。その後も世界各国の最高峰登頂を目標に、毎年のように海外遠征に出かけられました。学内のカフェテリア・ソフィアの壁には、田部井さんから寄贈していただいた、登頂記念の写真が並んでいます。

 1995(平成7)年には、内閣総理大臣賞を受賞。積極的にそして前向きに楽しんで生きていくこと、周りに感謝することをいつも大切にされていました。2002(平成14)年から2013(平成25)年の間は、本学園の理事もお務め下さいましたし、その後も評議員を引き続きお務め下さいました。2012(平成24)年からは毎年夏に、震災復興を担う若者に自信と勇気を持ってもらいたいと、東日本大震災の被災地の高校生を連れて、富士山に登られ、理事会でも、「昨日山からもどったばかりです」などと、楽しそうにお話をしてくださいました。5回目となった今年の7月にも、高校生をつれて富士山登山に挑まれ、「とても厳しい状況にいる高校生たちに、一歩一歩進めば、いつかは頂点に着くと実感してもらいたい」とことばを添えた葉書をくださいました。

 こうして田部井さんは、がん発病後も登山を続けられ、「体に負荷をかけないほうがいい」と周りからアドバイスをされても、山登りをしているときのほうが元気でいられるし、ベッドで寝ていてもちっとも幸せじゃない、と語られ、肉体的にも精神的にも何にも負けない強い信念をお持ちの方でした。

 12月18日、田部井さんとともに活動し、また、支えていた方々が世話人となって、本学で「田部井淳子さんを送る会」が行われました。在りし日の田部井さんを偲ぶたくさんの方々が参会。世界で活躍された私たちの素晴らしい先輩に、平成18年度に続き来年度の女性教養講座の講師として、2回目となる後輩たちへのご講演をお願いすることに決定していました。お話をお聞きすることが出来ず、本当に残念です。
 
(本学で開催された「田部井淳子さんを送る会」)
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(送る会で配布された資料)
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 田部井さんを偲びながら、果たして自分には田部井さんのように人生で何があっても続けることがあるのだろうかと自問しています。

新校舎が姿を見せました [2016年12月16日(金)]

 昨年の11月から、校門を入ってすぐ左、創立者記念講堂の手前の歩道が通れなくなっていました。もともと、あまり幅の広くない歩道と車道でしたから、そんなに不便さは感じていませんでしたが、壁の向こう側には一体何ができるのだろうかと思っていた方も多いと思います。
 
 いよいよ、その姿を見せました。昭和女子大学の新校舎です。体育館のフロアもある3階建てのビルで、健康デザイン学科のほか、来年度新設の食安全マネジメント学科も入ります。食安全マネジメント学科では、食品の安全性や栄養学などに加えて、フードビジネスを学び、卒業後は、食品系の企業、外食産業への就職や、レストラン経営などを目指す人が多い学科になることでしょう。

(工事中の校舎とトルストイ像)
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 本学の歴史を振り返ると、1920(大正9)年に歴史の第一歩を踏み出した日本女子高等学院の課程を1946(昭和21)年に引き継いだ日本女子専門学校が、1949(昭和24)年に新学制によって昭和女子大学と改め学芸学部(国文学科、英文学科、被服学科、家政理学科)を設置した時が家政系学科の始まりといえるでしょう。1953(昭和28)年には、学芸学部が文家政学部(日本文学科、英米文学科、被服学科、生活科学科)に改められ、さらに1962(昭和37)年には、生活美学科が設置されています。1978(昭和53)年には文家政学部が、文学部と家政学部に分離。1994(平成6)年に家政学部が生活科学科となりました。2009(平成21)年には、生活科学部に健康デザイン学科を設置。生活科学科が管理栄養学科となりました。そして、2017(平成29)年には食安全マネジメント学科が生活科学部に新設されることとなったのです。本学にまた新たな学びの拠点ができます。
 
 校門を入ると左手に、白壁のシンプルで美しい新校舎と記念講堂が並ぶと、きっと壮観に違いありませんね。キャンパスもぐっと広くなります。新しい建物で学ぶ新しい学科。食安全マネジメント学科に将来の夢を抱いて、たくさんの受験生が集まり、新入生の皆さんが大いに成長されることを期待しているところです。
 
(新校舎と並ぶ人見記念講堂)
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エル・カミーノ・ベル [2016年12月02日(金)]

(本学にあるエル・カミーノ・ベルベル部分の拡大写真)
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 この鐘は、キャンパスのどこにあるかご存知ですか?
 
 アメリカ合衆国カリフォルニア州を南北に走る国道101号線を、エル・カミーノ・レアル(El Camino Real)、現地の日本人は、『カミーノ街道』と呼んでいます。この名称はスペイン語で、“レアル”は皆さんの中でもファンの多い、スペインのサッカーチーム、“レアル・マドリード”の“レアル”と同じ、「王」の意味です。“カミーノ”は「道」。そして、エル・カミーノ・ベルは、この「(スペイン国)王の道」沿いに建てられた修道院の鐘のことを言います。
 
 まず、アメリカの国道の一部が、なぜスペイン語でエル・カミーノ・レアルと呼ばれているのか、そのあたりの歴史から振り返ってみましょう。1542年、日本では徳川家康が生まれた年に、ポルトガル人がサンディエゴ近辺に漂着したのを皮切りに、その後来航した人々が彼らの守護聖者の名前、サンディエゴをそのあたりの地名として植民地開拓が始まりました。1769年と言えば日本では織田信長全盛の時代ですが、その年から、当時スペインに支配されていたメキシコから聖フランシスコ修道会の修道士たちが次々とサンディエゴの南に入り、道沿いに修道院を建設しながら、北へ北へと進んでいきました。彼らの布教活動は、歴史的には聖書を武器とした侵略に近いものだったとも言われています。一方で修道士たちは、土地の開拓と共にブドウを栽培しワインの生産も始め、現在のカリフォルニアワインの生産にもつながったと考えられています。この道はサンフランシスコの北まで繋がっていて、1906年には21の伝道所が建設され、牧場や畑を持つ修道院も多くありました。この21の伝道所を結ぶルートがエル・カミーノ・レアルです。
 
 1810年には、植民者支配に対する農民反乱として始まったメキシコ独立戦争に勝利し、メキシコが独立しました。しかし、1846年から約2年間のアメリカ、メキシコ戦争ではアメリカが勝利し、この「エル・カミーノ・レアル」を含むカリフォルニアは、アメリカの領地となったのです。
 実は、聖フランシスコ修道会が進出した土地には、サンディエゴ-サンフランシスコ間だけでなくアメリカのあちこちに同名の道があるそうです。また、1900年頃には、この道路はカリフォルニアの砂漠を迂回して行く荒れ果てた道となってしまったという記録があります。1900年初頭は、まだ蒸気自動車が主流であった中、ガソリン自動車が誕生し、フランスでは貴族たちの乗り物として、一方、広大な国土を持つアメリカでは広く大衆が馬車に代わる移動手段をとして、急激に利用者が多くなりました。州の自動車協会では「道路整備の日(Road Building Days)」を設けたほどでした。特に「婦人連合会(General Federation of Women’s Club)」が、歴史的価値のある道路遺産を失くしてしまわないように、また、ガソリン車社会となっても安全な道となるよう、継続的に努力を重ねたとの記録もあります。その後20 世紀に入って この道筋を確認し、道路に沿って伝道所の象徴である鋳物のつり鐘、ミッション・ベルが1マイル毎に450個所建てられたそうです。※この道標の柱は羊飼いの持つ杖を模していて、高さ11フィート(約3.3m)からベルが吊るされています。
 
 さて、キャンパスの中で、そのミッション・ベルのレプリカがあるのは「昭和之泉」です。これは第2代理事長の人見楠郎先生が、サンディエゴ市から譲り受けたものだそうです。
 
(昭和之泉のエル・カミーノ・ベルの写真全体像)
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 同じ釣鐘は、サンディエゴと姉妹都市提携を結んだ横浜市の山下公園にもあります。また、吹奏楽に詳しい方は、アルフレッド・リードの吹奏楽曲「エル・カミーノ・レアル」をご存知のことでしょう。アメリカに住むリードが、国道のエル・カミーノ・レアルからイメージして作曲したのかもしれませんね。楽隊を従えたスペイン国王の豪華絢爛な行列が、「国王の道」を進んで行く様子を思い浮かべながら聴いてみると良いでしょう。
 エル・カミーノ・ベルから、いろいろな話になりました。小さな知識の点(Steve Jobsはdotと呼ぶ)も、繋ぎ合わせていくと次々と広がるものです。私は、サンフランシスコ州立大学大学院の修士を1977年に終えましたが、サンディエゴには、ドライブしたり、ものすごく広い農園を持つ豪邸の留守番のアルバイトをしたりしたことがあります。皆さんは、「昭和之泉」にあるエル・カミーノ・ベルを見て、どんなことに思いを馳せるのでしょう。

野に出でよ [2016年11月25日(金)]

 私たちの年代の卒業生にとっては、学寮と言えば茅ケ崎や大磯の寮を思い出します。望秀学寮はもちろんのこと、東明学林もまだ出来ていなかったからです。神奈川県大井町にある本学の研修施設「東明学林」は1977(昭和52)年の3月に竣工式を迎えました。

(東明学林から望む富士山)
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 東明学林の「東明」とはもちろん、創立者人見圓吉先生のことで、先生の雅号です。東明学林は酒匂川を眼下に見下ろす12万平方メートルに近い自然の山の傾斜地をうまく利用して建てられた白亜の寮舎です。
 
 学林の入口近くには、創立者人見圓吉先生の詩碑があります。それは、富士山が一番美しく見える所に置かれていて、「ふるさとの碑」と名付けられています。先生の生まれ故郷、岡山産の赤花崗岩には、私の大好きな詩が刻まれています。
 
(ふるさとの碑)
ふるさとの碑

  
        人見東明

  
野に出でよ
あかときの光
草の葉 露にぬれ

地を踏め
やわらかに また
冷やゝかな
地をふめよ 足うらで

風さわやかに
木の葉を揺り
鳥の胸毛をふく

空を見よ
うつくしき空に
雲はたゞよう

野に出でよ 愛の野へ
野は自然の胸
つねに静かにして
安らかなり

 
 もうすぐ夜が明けそうな気配をわずかに見せつつも、まだ薄暗い「あかとき」。露のおりた草の中に足を踏み入れると、ひんやりとした大地を足裏に感じる。そんな感覚って、いつ体験したかはすぐに思い出せなくても、なんとなく分かりますよね。しっかりと足裏で大地を踏みしめると、いつも変わらずに自分を支え抱いていてくれる大自然の力が体に沁み込んで来るように思いませんか。
 
 東明先生たちと早稲田詩社を結成した野口雨情の田園詩集『枯草』の中に、「踏青(とうせい)」と題した詩があります。次はその1節です。
 

君よ青きを踏みたまへ
いざ野に出でて踏みたまへ
踏めば緑の若草に
ああ春の香は深からむ

 
 踏青とは、春の青草を踏んで遊ぶことや春に行われる郊外の散歩のことで、唐詩ではよく用いられることばだそうです。東明先生の詩も春に詠まれたのでしょうか。
 
 この歌碑の横には「学父の碑」があります。そこには東明学林開設当初から、創立者の分骨が祀られています。そして1995(平成7)年の3月には、これまで別々の場所に納められていた学母人見緑先生の分骨も合祀されました。毎年5月にはどなたでも東明学林内のツツジの花を楽しんでいただけるイベントもあります。是非、お訪ねください。そして、東明先生の歌碑と校祖夫妻の碑にお参りし、そこから正面に見える富士山を堪能してください。
 
(学父の碑)
学父の碑

秋桜祭 [2016年11月18日(金)]

 今年で第24回目となる秋桜祭(学園祭)が11月12日㈯と13日㈰の両日、快晴の秋空のもと開催されました。学生による実行委員会が企画・運営のすべてを取り仕切り、クラブ、クラス、研修グループ、プロジェクトグループ等に在校生や卒業生も参加して、多くの方々が「つなぐ」のテーマのもと、展示、プレゼンテーション、ステージパフォーマンス、バザーなど、盛りだくさんのイベントを繰り広げました。とても充実した2日間でした。秋桜祭のプログラムには、総務、庶務、会場管理、宣伝、企画、コンサートとトークショーのイベント担当など、総勢168名の学生スタッフの名簿が掲載されていました。大学全体のまとめ役として活躍された実行委員会の幹部の皆さんも、本当にお疲れ様でした。
 
(正門に掲げられた今回の秋桜祭の看板)
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 秋桜祭が16:00に終了して、大方の片付けも終わった頃、帰宅の途につきました。大学前の国道246号で渋谷方面に行くバスを待っていたところ、女子学生らしき3人組が、大きな袋をもって、ウロウロとしているのが目に入りました。来たバスに乗った後に、良く見ると、ゴミ袋とゴミ拾い用のトングを持って、道路脇に捨てられたゴミを拾いながら歩いていました。本学の学生の様でした。どこまで歩いて行ったのかは見届けていませんが、多分、三軒茶屋駅の方まで歩いたのではないかと思います。同じバスに乗った中年女性の二人組の方が学生達を見て「あら、ありがたいわね」と話しているのを聞いて、「うちの学生です」と自慢したいくらい嬉しかったのですが、それよりも、バスに乗る前に「ありがとう、お疲れ様」と声をかければよかったと後悔しています。後輩たちが、最後の最後まで、きちんと気を配り、有終の美を飾ってくれたことをとても嬉しく思いました。
 
(秋桜祭の様子)
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 本学では創立以来、学問研究の発表の場として大学祭が行われてきました。1955(昭和30)年3月の大火の後、秋の体育祭と同じように、春にも全学参加の行事をしたいということで、初夏の6月に「六月祭」と称して大学祭を行うことになりました。そして、その翌年からは付属校も参加することとなり、「昭和祭」と名付けました。1965(昭和40)年の6月には、三笠宮崇仁殿下が本学の「昭和祭」にご来館くださったことが、『昭和女子大学70年史』に記録されています。しかし残念なことに、1971(昭和46)年は学生運動の煽りをうけて、学科ごとに小規模な研究発表や展示は行いましたが、昭和祭には大学として不参加となってしまいました。すぐに学生から昭和祭復活の声があがり、1973(昭48)年に再開。その折に秋の「文化の日」の後に開催することになったのです。さらに1993(平成5)年から大学では「秋桜祭」という名称で、学生の自主的な企画・運営による学園祭が始まり、今日を迎えています。
 
(1970年前後の昭和祭の大学パンフレット)
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 来年の秋桜祭が今から楽しみです。

「朝風薫る武蔵野の緑ヶ丘・・・」ってどこ? [2016年11月11日(金)]

 校歌の第1節にある「武蔵野の緑ヶ丘」は、残念ながら、世田谷キャンパス近辺のことではありません。

 昭和女子大学の校歌は、実は、昭和女子大学と呼ぶようになる前から歌い継がれてきたものです。初めて校歌が歌われたのは、大正15 (1926) 年6月5日、上高田の新校舎の落成式でした。上高田の校舎は東京府豊多摩郡野方町上高田39番地にありました。野方町は現在の東京都中野区の北部にあたる地域で、明治22(1889)年の町村制施行でいくつかの村が合併して野方村に、さらに大正13 (1924) 年には野方町となっています。校舎の住所にある上高田はJRの東中野駅の近くです。武蔵野の「緑ヶ丘」は地名ではなく、上高田校舎の近くには小高い丘が続き、武蔵野の木々の緑が美しい地帯だからこう詠われた。
 
(上高田校舎全景)
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 昭和20 (1945) 年に本学の前身である日本女子高等学院がこの世田谷の地に移転し、昭和女子大学とその名を改めたのが、昭和24年のことでしたから、昭和女子大学となるまで24年前校歌はすでに歌われていたことになります。学父人見圓吉先生が作詞されたその歌詞には、本学の教育の理想が込められています。
 

第1節後半 「学びの庭の八重桜色香も清く咲きみてり」
 本居宣長の「敷島の大和心を人とわば、朝日に匂う山桜」(日本人の心とは何かと尋ねられたら、朝日に照り映える山桜の花の美しさに感動するような心です、と答えよう)に詠われているように、日本人の心を大切にして、高尚な精神と卓越した識見を備えた人となりましょう。

第2節   「広き世界の学芸と古今の知徳照り映えて、~」
 広く学を東西に求めて、知徳を高め、周りの人々の模範となれる輝く人となりましょう。

第3節   「あらゆる者を育みて、育て上げしは女性なり、~」
 学を積み、知徳を磨いて人格を高め、その力を創造的に発揮し、人道を照らし、女性文化の高揚につとめましょう。

 上高田の新校舎落成式で歌われた第3節後半の歌詞は、

 女性文化の帆も白く
 海原遠く漕ぎ出たり

であったそうです。しかしその後、学父の意図で現在の歌詞「女性文化の帆を張りて 海路はるけく漕ぎ出たり」となりました。

 一方、作曲者は不明です。歌詞が完成して作曲をお願いしたはずの方に後に確認をしたのですが、ご本人の作だということがはっきりしなかったため、作曲者不詳となっています。
 
 昭和13年に英文学担当教授が英訳されたものが『昭和女子大学70年史』(p.84)に掲載されていました。

THE SCHOOL SONG

When the morning breeze is sweet
   In the Musashino’s field,
And the mild spring softly smiles
   In the green grass hill,
Cherries in the garden ground
   Of our learning’s home
Blossom out in colours bright
   And with sweet perfume.

Learning of the world-wide breadth
   And all sorts of arts,
And achievements, old and new,
   With resplendent light,
In the mirror, bright and clear,
   Of eternal life,
Shine reflected in the blue
   Of the heaven above.
 
To bring up all things of life
   To their perfect states
Is the virtue that belongs
   To maternity.
In the ship that hoists the sail
   O’ cultured womanhood,
O’er the ocean’s waves we glide
   Onward and afar.
 
March 22, 1938
Translated by Tetsuzo Okada

 
 問題:上記の英詩を日本語にしなさい。

 もちろん、全員正解ですよね!?