野に出でよ [2016年11月25日(金)]

 私たちの年代の卒業生にとっては、学寮と言えば茅ケ崎や大磯の寮を思い出します。望秀学寮はもちろんのこと、東明学林もまだ出来ていなかったからです。神奈川県大井町にある本学の研修施設「東明学林」は1977(昭和52)年の3月に竣工式を迎えました。

(東明学林から望む富士山)
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 東明学林の「東明」とはもちろん、創立者人見圓吉先生のことで、先生の雅号です。東明学林は酒匂川を眼下に見下ろす12万平方メートルに近い自然の山の傾斜地をうまく利用して建てられた白亜の寮舎です。
 
 学林の入口近くには、創立者人見圓吉先生の詩碑があります。それは、富士山が一番美しく見える所に置かれていて、「ふるさとの碑」と名付けられています。先生の生まれ故郷、岡山産の赤花崗岩には、私の大好きな詩が刻まれています。
 
(ふるさとの碑)
ふるさとの碑

  
        人見東明

  
野に出でよ
あかときの光
草の葉 露にぬれ

地を踏め
やわらかに また
冷やゝかな
地をふめよ 足うらで

風さわやかに
木の葉を揺り
鳥の胸毛をふく

空を見よ
うつくしき空に
雲はたゞよう

野に出でよ 愛の野へ
野は自然の胸
つねに静かにして
安らかなり

 
 もうすぐ夜が明けそうな気配をわずかに見せつつも、まだ薄暗い「あかとき」。露のおりた草の中に足を踏み入れると、ひんやりとした大地を足裏に感じる。そんな感覚って、いつ体験したかはすぐに思い出せなくても、なんとなく分かりますよね。しっかりと足裏で大地を踏みしめると、いつも変わらずに自分を支え抱いていてくれる大自然の力が体に沁み込んで来るように思いませんか。
 
 東明先生たちと早稲田詩社を結成した野口雨情の田園詩集『枯草』の中に、「踏青(とうせい)」と題した詩があります。次はその1節です。
 

君よ青きを踏みたまへ
いざ野に出でて踏みたまへ
踏めば緑の若草に
ああ春の香は深からむ

 
 踏青とは、春の青草を踏んで遊ぶことや春に行われる郊外の散歩のことで、唐詩ではよく用いられることばだそうです。東明先生の詩も春に詠まれたのでしょうか。
 
 この歌碑の横には「学父の碑」があります。そこには東明学林開設当初から、創立者の分骨が祀られています。そして1995(平成7)年の3月には、これまで別々の場所に納められていた学母人見緑先生の分骨も合祀されました。毎年5月にはどなたでも東明学林内のツツジの花を楽しんでいただけるイベントもあります。是非、お訪ねください。そして、東明先生の歌碑と校祖夫妻の碑にお参りし、そこから正面に見える富士山を堪能してください。
 
(学父の碑)
学父の碑

秋桜祭 [2016年11月18日(金)]

 今年で第24回目となる秋桜祭(学園祭)が11月12日㈯と13日㈰の両日、快晴の秋空のもと開催されました。学生による実行委員会が企画・運営のすべてを取り仕切り、クラブ、クラス、研修グループ、プロジェクトグループ等に在校生や卒業生も参加して、多くの方々が「つなぐ」のテーマのもと、展示、プレゼンテーション、ステージパフォーマンス、バザーなど、盛りだくさんのイベントを繰り広げました。とても充実した2日間でした。秋桜祭のプログラムには、総務、庶務、会場管理、宣伝、企画、コンサートとトークショーのイベント担当など、総勢168名の学生スタッフの名簿が掲載されていました。大学全体のまとめ役として活躍された実行委員会の幹部の皆さんも、本当にお疲れ様でした。
 
(正門に掲げられた今回の秋桜祭の看板)
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 秋桜祭が16:00に終了して、大方の片付けも終わった頃、帰宅の途につきました。大学前の国道246号で渋谷方面に行くバスを待っていたところ、女子学生らしき3人組が、大きな袋をもって、ウロウロとしているのが目に入りました。来たバスに乗った後に、良く見ると、ゴミ袋とゴミ拾い用のトングを持って、道路脇に捨てられたゴミを拾いながら歩いていました。本学の学生の様でした。どこまで歩いて行ったのかは見届けていませんが、多分、三軒茶屋駅の方まで歩いたのではないかと思います。同じバスに乗った中年女性の二人組の方が学生達を見て「あら、ありがたいわね」と話しているのを聞いて、「うちの学生です」と自慢したいくらい嬉しかったのですが、それよりも、バスに乗る前に「ありがとう、お疲れ様」と声をかければよかったと後悔しています。後輩たちが、最後の最後まで、きちんと気を配り、有終の美を飾ってくれたことをとても嬉しく思いました。
 
(秋桜祭の様子)
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 本学では創立以来、学問研究の発表の場として大学祭が行われてきました。1955(昭和30)年3月の大火の後、秋の体育祭と同じように、春にも全学参加の行事をしたいということで、初夏の6月に「六月祭」と称して大学祭を行うことになりました。そして、その翌年からは付属校も参加することとなり、「昭和祭」と名付けました。1965(昭和40)年の6月には、三笠宮崇仁殿下が本学の「昭和祭」にご来館くださったことが、『昭和女子大学70年史』に記録されています。しかし残念なことに、1971(昭和46)年は学生運動の煽りをうけて、学科ごとに小規模な研究発表や展示は行いましたが、昭和祭には大学として不参加となってしまいました。すぐに学生から昭和祭復活の声があがり、1973(昭48)年に再開。その折に秋の「文化の日」の後に開催することになったのです。さらに1993(平成5)年から大学では「秋桜祭」という名称で、学生の自主的な企画・運営による学園祭が始まり、今日を迎えています。
 
(1970年前後の昭和祭の大学パンフレット)
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 来年の秋桜祭が今から楽しみです。

「朝風薫る武蔵野の緑ヶ丘・・・」ってどこ? [2016年11月11日(金)]

 校歌の第1節にある「武蔵野の緑ヶ丘」は、残念ながら、世田谷キャンパス近辺のことではありません。

 昭和女子大学の校歌は、実は、昭和女子大学と呼ぶようになる前から歌い継がれてきたものです。初めて校歌が歌われたのは、大正15 (1926) 年6月5日、上高田の新校舎の落成式でした。上高田の校舎は東京府豊多摩郡野方町上高田39番地にありました。野方町は現在の東京都中野区の北部にあたる地域で、明治22(1889)年の町村制施行でいくつかの村が合併して野方村に、さらに大正13 (1924) 年には野方町となっています。校舎の住所にある上高田はJRの東中野駅の近くです。武蔵野の「緑ヶ丘」は地名ではなく、上高田校舎の近くには小高い丘が続き、武蔵野の木々の緑が美しい地帯だからこう詠われた。
 
(上高田校舎全景)
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 昭和20 (1945) 年に本学の前身である日本女子高等学院がこの世田谷の地に移転し、昭和女子大学とその名を改めたのが、昭和24年のことでしたから、昭和女子大学となるまで24年前校歌はすでに歌われていたことになります。学父人見圓吉先生が作詞されたその歌詞には、本学の教育の理想が込められています。
 

第1節後半 「学びの庭の八重桜色香も清く咲きみてり」
 本居宣長の「敷島の大和心を人とわば、朝日に匂う山桜」(日本人の心とは何かと尋ねられたら、朝日に照り映える山桜の花の美しさに感動するような心です、と答えよう)に詠われているように、日本人の心を大切にして、高尚な精神と卓越した識見を備えた人となりましょう。

第2節   「広き世界の学芸と古今の知徳照り映えて、~」
 広く学を東西に求めて、知徳を高め、周りの人々の模範となれる輝く人となりましょう。

第3節   「あらゆる者を育みて、育て上げしは女性なり、~」
 学を積み、知徳を磨いて人格を高め、その力を創造的に発揮し、人道を照らし、女性文化の高揚につとめましょう。

 上高田の新校舎落成式で歌われた第3節後半の歌詞は、

 女性文化の帆も白く
 海原遠く漕ぎ出たり

であったそうです。しかしその後、学父の意図で現在の歌詞「女性文化の帆を張りて 海路はるけく漕ぎ出たり」となりました。

 一方、作曲者は不明です。歌詞が完成して作曲をお願いしたはずの方に後に確認をしたのですが、ご本人の作だということがはっきりしなかったため、作曲者不詳となっています。
 
 昭和13年に英文学担当教授が英訳されたものが『昭和女子大学70年史』(p.84)に掲載されていました。

THE SCHOOL SONG

When the morning breeze is sweet
   In the Musashino’s field,
And the mild spring softly smiles
   In the green grass hill,
Cherries in the garden ground
   Of our learning’s home
Blossom out in colours bright
   And with sweet perfume.

Learning of the world-wide breadth
   And all sorts of arts,
And achievements, old and new,
   With resplendent light,
In the mirror, bright and clear,
   Of eternal life,
Shine reflected in the blue
   Of the heaven above.
 
To bring up all things of life
   To their perfect states
Is the virtue that belongs
   To maternity.
In the ship that hoists the sail
   O’ cultured womanhood,
O’er the ocean’s waves we glide
   Onward and afar.
 
March 22, 1938
Translated by Tetsuzo Okada

 
 問題:上記の英詩を日本語にしなさい。

 もちろん、全員正解ですよね!?

恩師同窓の墓 [2016年11月04日(金)]

 毎年11月には世田谷区若林にある松陰神社で、恩師同窓の合祀慰霊祭が行われます。
 まだ上高田に校舎があった昭和15(1940)年、創立20周年の記念事業として、学父人見圓吉先生は「恩師の墓」を、さらに昭和18(1944)年には「同窓の墓」を、亡き恩師、校友と学園が将来永久に精神的に結ばれていることの証として、校舎近くの清原寺に建立されました。
 
(清原寺にあった恩師同窓の墓)
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 その後、校舎が上高田から世田谷のこの地に移り、昭和36(1961)年に「恩師の墓」と「同窓の墓」が世田谷キャンパスの近くにある、学問の神と崇められる吉田松陰が祀られている松陰神社の境内の霊園に改葬されたのです。

(現在の恩師同窓の墓)
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 松陰神社は、東急世田谷線の松陰神社前駅を降りて、松陰神社通りの商店街を北に歩き、約3分位の所にあります。境内には吉田松陰の墓所をはじめ、松陰門下の伊藤博文、山縣有朋等によって奉納された32基の石燈籠も並んでいます。また、山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模した建物を見学することもできます。
 
(松陰神社)
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 松陰は天保元(1839)年、長州藩(現在の山口県)萩で毛利藩士であった杉家に生まれました。11才で藩主の毛利慶親公に山鹿流兵学の『武教全書』を講義した程の勉強家でした。その学問の幅は広く、西洋の文明や兵学についても深い知識を持ち、下田沖に停泊中であったペリーの軍艦に乗船してアメリカに連れて行ってもらうおうと懇願したこともありました。嘉永6(1854)年のことです。

 この計画が失敗に終わり、江戸、そして萩で投獄されましたが、萩にいた1年2か月間に約600冊の本を読破し、同じく投獄されていた人々に『論語』などを教える傍ら、海外の強国から日本をどう守るかを研究しました。安政2(1856)年に松陰は許されて杉家に戻り、そこに孟子の教えを学びたいという若者が多く集まることとなり、叔父の玉木文之助が以前に開いた松下村塾という名を付けた塾をはじめたのだそうです。

 安政5(1859)年に井伊直弼が大老となり、日米通商条約に調印したことから安政の大獄が起こり、松陰も日本の安全が脅かされることを恐れて藩主や塾生に意見書を送ったことから、塾は閉鎖、松陰は再び投獄され、その翌年、江戸伝馬町獄舎で処刑されました。享年30歳でした。その4年後に、門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、毛利藩の別邸があった現在の世田谷の地に改葬されたそうです。学問の神を祭った神社として、全国各地から参拝者が訪れます。

 中高部の生徒であった頃は、「行学」の時間にクラスごとで松陰神社に恩師・同窓の墓に参り、周りの草むしりをしたり、落ち葉を集めたりしました。都会の中にありながら、静かな森に囲まれた境内に届く、鳥のさえずりやそよ風に揺られる木々の葉音を懐かしく思い出します。境内は、春、夏、秋、冬それぞれに景色を変えます。冬も近くなり、美しい紅葉の季節が終わろうとする頃、突然降り出した雪をかぶった石燈籠が一列に並ぶ光景はとても素敵でしたよ。

 大学のキャンパスからウォーキングのつもりで歩いても、30~40分の場所にあります。皆さんも是非、お尋ね下さい。

「学父の岩」と「学母の岩」 [2016年10月28日(金)]

 「校訓の巌」と呼ばれる創立者記念講堂の横にある青色の油石と同時期に運びこまれたのが、大学5号館の入り口右手に置かれている、「学父の岩」です。
 
(学父の岩)
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 そしてその右隣には、30トンの緑色の石があります。これは、学母人見緑先生の生まれ故郷、四国愛媛県産で、伊豫青石とも呼ばれている石です。

(学母の岩)
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 名前の通り晴れた日には緑色に、そして、雨に濡れると青色に輝き、模様も複雑に変化するように見えます。伊豫青石の産地には昔から有名なお寺も多く、きっと弘法大師や空海も、2億年近く前からさまざまな自然の力を受けて形成されたこの石の岩山を歩いて四国を巡ったのではないでしょうか。紀伊国屋門左衛門の屋敷を岩崎弥太郎が買い取って今は都立「清澄庭園」として開放されている回遊式林泉庭園には、全国から集めた伊豫青石等の名石が数多く配置されているそうで、この伊豫の石は数々の名庭にも景石として使われています。
 
 「学父の岩」と「学母の岩」のそばには、春を告げる梅の花も咲きます。また、二つの岩の前には、サツキが二株植えられていますが、これらはもともと校祖が鉢植えを購入して植えられたものだそうで、35年以上たった今ではしっかりと根をおろし、5月の声を聞くと、可愛いらしい花を咲かせます。サツキは「皐月躑躅(サツキツツジ)」とも呼ばれ、ツツジ科。旧暦の5月(皐月)に咲くことからその名がつき、俳句では「夏」の季語です。ツツジよりやや遅く咲き、6月の終わり頃まで、紅色、ピンク、絞りなどの少し小さめの花をつけます。
 
 学園のいろいろな場所に石や岩が配置されています。7人の妖精を探すのも楽しいことですが、さまざまな謂れのある石や岩を探して歩くのも楽しいのではないでしょうか。
 
(「学父の岩」と「学母の岩」の傍らに咲く梅)
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校訓の巌 [2016年10月21日(金)]

 創立者人見記念講堂の入り口右手に、大きな岩(巌)が置かれているのをご存じですか。キャンパスには何か所かに大きな石が置かれていますが、その中でこの石はもっとも巨大です。45トンもあります。45000キロですから、45キロの体重の人が1000人集まった重さですね。
 
(講堂前の校訓の巌)
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 これは学園創立60周年にあたる昭和55(1980)年に北海道日高山中から運ばれた青色の石です。北海道を代表する名石の一つで、神居古潭石(かむいこたんいし)が正式な呼び名のようです。庭石として全国的に名高いのは、大変に硬く、「油石」とも呼ばれ磨かなくても滑らかな光沢に富んでいる石だそうです。北海道、日高の変成岩層が石狩川の急流と交差することでこのような特別な石が形成されるとか。神居古潭石自体の色はさまざまのようですが、本学にあるのはスクール・カラーの青色で、特に雨に濡れた時のみずみずしい色は、素晴らしいものです。
 
 創立者人見圓吉先生が、記念講堂の前にいつも笑顔で、物静かにどっしりと座っていてくださる、そんな風情のある青い石。ここを通る時には、校祖の学園への祈りを思い出したいものです。

先哲の碑 [2016年10月14日(金)]

 本学が「昭和女子大学」となったのが、世田谷区太子堂のこの地に移転してから4年後の、昭和24(1949)年4月のことでした。その年の9月に校内に「先哲の碑」が建立され、さらにその後、昭和59(1984)年に創立者人見記念講堂とグリーンホールの間の場所に移したのが、現在の「先哲の碑」です。先哲の碑は、碑文にもあるように、創立以来、本学園の研究・教育・運営に尊い命をそそぎ、現在の学園の繁栄を築いてくださった方々の業績を顕彰し、感謝の気持ちを捧げるために建てられたものです。
 
(今年の先哲の慰霊祭の様子)
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 全学園参加で開催していた時代の体育祭で、学父人見圓吉先生が両手を大きく広げて児童・生徒・学生に応えているお写真がありますが、そのお姿にちなんで、ここで学ぶ者たちを両手で大きく抱いてくださるような形に作られています。先生の故郷である岡山県の赤御影石が使われています。今年も10月4日に全学園の代表者が碑の前に集まり、過去1年間に亡くなられた恩師の慰霊祭を行い、先哲をしのび、感謝の気持ちを新たにしました。そして、本学園のさらなる発展を誓いました。この行事は、毎年秋に行われ(今年は11月9日)、世田谷区若林にある松陰神社での恩師・同窓の墓への合祀慰霊祭の1か月ほど前に行われることになっています。
 
(創立50周年記念体育祭での学父 人見圓吉)
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International Campus Boston [2016年10月07日(金)]

 先日、本箱の整理をしていて、「Showa Campus Life in Boston」と題した冊子を見つけました。ボストン校が開学されたのは1988年。まだ「ボストン昭和女子大学」独自では留学ビザが出せない初期の時代、セント・マイケルズ・カレッジからビザを発行していただき、学生達も同大学で1週間寮生活をして学んでいた時代に作られた冊子です。セント・マイケルズ・カレッジは、カナダとの国境に近いバーモント州のウィヌスキーにあります。カトリック系の大学で、多くの外国人留学生を受け入れています。

 冊子の最後の数ページに、ボストン研修を経験し日本に戻った学生が書いた手記が掲載されていした。「(ボストンでの)一番の収穫は、限られた時間を悔いの無いようにすごし、その中で自分の可能性を見出し、新しい世界の中で真の自分を発見したことであった」という感慨は、その後にボストンで研修を受けたすべての学生や生徒にも共有され続けているのではないでしょうか。
 
(昭和ボストン全景)
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Moss Hill Dedication

Standing on this rise, Moss Hill, we have a view of the wide world.
On this hill, we will learn about this land, America.
On this hill, we will strive for the future of Japan.
On this hill, we will use our human potential to join East and West, Japan and the world.
Become women who dedicate yourselves gladly to the progress of humankind.

モス・ヒル宣言
モス・ヒルという名のこの丘の上に立って、広い世界を見渡し、
この丘でアメリカをまなび、
この丘で日本の未来を探り、
この丘で東洋と西洋、日本と世界の新しい融合点を発見するような人材となり
進んで人類の向上発展に貢献する女性となりなさい。

 これは、玄関ロビーを入って右手前に掲げられているボストン校開学の宣言です。ボストン校を訪れたことのある方は、きっと目にされたことがあるでしょう。

 ボストンは、アメリカ東海岸の北緯42度、日本の函館と同じくらいのイ緯度にあり、人口は約65万人ほど。東京には1,400万人近く住んでいることと比較すると、随分ゆったりとしていますね。時差はマイナス14時間(サマータイムはマイナス13時間)、日本からは往路13時間、復路15時間程度かかります。

 1920年に昭和女子大学の前身である日本女子高等学院が、教師5名と学生8名で創設されてから66年経った1986年にモス・ヒルの丘にボストン昭和女子大学を設立することが決定しました。1987年には、マサチューセッツ州知事からボストン昭和女子大学設立の認可を受け、1988年に開学。これまで約14,000名を超える、昭和学園の児童、生徒、学生、そして、他大学の学生も、ボストン昭和で学んでいます。

 呼び名も、開学当初のボストン昭和女子大学 (Showa Women’s Institute Boston)から昭和ボストン(Showa Boston Institute for Language and Culture)と変わり、現在は、インターナショナル・キャンパス・ボストン(International Campus Boston)と呼ぶまでに発展しています。なぜ、International Campusかと言うと、もちろん中心となるのはShowa Boston Institute for Language and Cultureですが、キャンパスにはその他にブリティシュスクール(British School of Boston)、ボストン日本協会(The Japan Society of Boston)、荒木バーカス日本文化センター(Araki-Barcus Japanese Culture Center)が置かれ、地域活動や文化活動が盛んに行われ、日本とボストンの交流の基点となっているからです。

 2008年、昭和ボストンは創立20周年を迎え、募金をつのって八重桜など100本に近い桜の苗がキャンパスに植えられました。若い桜の木は、少しずつ花を咲かせるようになりました。桜の名所として、地域の皆さんと共に春の始まりを楽しむことができるといいですね。

(昭和ボストンの学生寮前に咲く八重桜)
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昭和女子大の「昭和」とは? [2016年09月30日(金)]

 「昭和女子大学って、『昭和』の時代にできたので『昭和』という名前になったのですか?」と時々聞かれます。この質問にお答えするために、まず、本学の歴史を辿ってみたいと思います。

 大正9年9月10日に「日本女子高等学院」が東京都文京区に創設されたのが本学の始まりです。ここでは「昭和」の名前はありません。大正11年4月に、東京都中野区東中野に校舎が移転され、「附属高等女学部」が開設されました。さらに大正15年6月5日には、東京都中野区上高田に「日本女子高等学院」と「附属高等女学部」の校舎を移転。昭和2年7月29日には「財団法人日本女子高等学院」が設立され、その時に、附属高等女学部を「昭和高等女学校」と改めたのです。

(中野区上高田当時の校門)
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 その後、昭和20年4月と5 月に、戦災のため全校舎が罹災し、昭和20年11月9日に「日本女子高等学院」と「昭和高等女学校」は、旧陸軍近衛野戦銃砲兵連隊跡である世田谷区太子堂に移転しました。大学に「昭和」の名が付くまで、もう少し歴史が続きます。

 昭和21年4月1日に本学は「財団法人東邦学園」を併設し、その傘下に、「日本女子専門学校」を開校し、「日本女子高等学院」の課程を引き継ぎました。昭和22年4月には新学制の元、「昭和中学校」を開校し、23年4月には「昭和高等女学校」を「昭和高等学校」と改めました。大学に昭和の名前がつくまであと少しです。

 昭和24年4月1日に、新学制によって「日本女子専門学校」を「昭和女子大学」と改め、学芸学部を開設、さらに、昭和25年には短期大学部を開学。翌年の昭和26年に「財団法人東邦学園」も「学校法人昭和女子大学」と改め、「財団法人日本女子高等学院」も「学校法人昭和高等学校」(昭和38年 4月に本学が併合)と改めました。
 
(昭和女子大学開学当時の正門〈今の正門と同じ場所〉)
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 ということで、大学の名称は、大正9年「日本女子高等学院」、昭和21年「日本女子専門学校」そして、ついに昭和24年に「昭和女子大学」となったという訳です。

 さて、「昭和」の名称については、『昭和女子大学70年史』(p.253)に次のように書かれています。
 「教職員と学生から日本、富士、敷島、武蔵野、東邦、昭和と様々な名称が出され、活発な意見を交換した。この結果「従来の附属高等女学校の校名でもあり昭和時代に生まれた大学であるが、何よりも『昭和』」の中に含まれている本旨(百姓昭明 協和萬邦)が、新時代への脱皮と真の民主主義を象徴的に包含しているから」ということで「昭和女子大学」に決定した。」

 歴史的には、初めて本学園で「昭和」の名称が用いられたのは、昭和2年のことで、附属高等女学部を「昭和高等女学校」と改めた時です。この時、なぜ「昭和」としたか。前年に元号が「昭和」と変わったことや、後の大学の命名と時と同じように、孔子が編纂したとされる中国の古典『書経』の中の「百姓昭明、協和萬邦」が元となったのかもしれません。

 『昭和女子大学70年史』の記録から、大学や学園の「昭和」の名称は、「百姓昭明 協和萬邦」に由来していることが読み取れます。四書五経の一つである『書経』の初めにある尭典(伝説の王、尭(ぎょう)を讃えた文章)の一説、「九族既睦平章百姓 百姓照明協和萬邦」「九族(きゅうぞく)既(すでに)睦(むつ)まじくして、百姓(ひゃくせい)を平章(べんしょう)す。百姓(ひゃくせい)昭明(しょうめい)にして、萬邦(ばんぽう)を協和(きょうわ)す。」から引用されています。前半の「平章」はそれぞれの分を弁(わきまえ)ることを意味し、後半には、「百姓」(人々それぞれ)が「昭」(徳)を「明」(明らか)にすれば、「萬邦」(世界中)の「協和」(共存繁栄)がはかられる、と書かれています。「百姓昭明」の「昭」と「協和萬邦」の「和」で「昭和」となりました。ですから、「昭和」は「すべての人々が知徳を磨き、世界が共存繁栄するために互いに協力和合していきましょう」という意味になるのではないでしょうか。

 ところで、私の父は「明治」、母は「大正」、私は「昭和」生まれ。そして今は「平成」。「明治」は『易経』の「聖人南面して天下を聴き、明に向かいて治む」、「大正」も同じく『易経』の「大いに亨(政治)を正すを持って天のみちなり」、「平成」は『史記』の「内平かに外成る」と『書経』(偽古文尚書)の「地平かに天成る」がそれぞれ出典とされています。日本の元号の多くは中国の古典が出典の由来となっているのですね。「平成」の元号も既に江戸末期に「明治」と共に候補になっていたのだそうです。
 
(今の正門)
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スクールカラー [2016年07月28日(木)]

 夏らしい空が見られるようになりました。これから秋の終わりまで、晴れた日の空を見上げるのが楽しみです。夏は朝方、秋は夕方近くが良いでしょうか。青空を眺めていると、すごくスカッとした気持ちになりますよね。
 
 上空が高気圧に覆われると、空が晴れます。日本では、夏は太平洋側から、秋は大陸側から高気圧が移動してくるのだそうで、海洋で生まれた高気圧よりも大陸で生まれた高気圧の方が空気中に含まれる水蒸気の量が少なく、より高い上空からブルーの散乱光が地上に降り注ぐのだそうです。そのため、夏に比べると秋は、「空高く…」と言われるように、より空が高く感じられ、鮮明な青い空が広がっているように見えるのですね。 
 
(大学1号館9階から見る新宿方面の空)
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 昭和のスクールカラーがブルーであることは、皆さんもご存じのことと思います。『広辞苑』でblueにあたる日本語の「青」の意味を調べてみました。「色の名。三原色の一つで、晴れた空のような色。藍 (あい) 系統の色から、黄みを加えた緑系統の色までを総称する」と書かれています。「青色」といってもかなり幅が広そうです。「日本の色(伝統色・和色)Traditional Colors of Japan」には日本の青空だけでも428色も並んでいます。
 
 人類の祖先が誕生した頃、多くの動物が今もそうであるように、黒と白、つまり明るいか暗いかしか認知していなかったとのこと。人が最初に認知した有彩色は「青」と言われているのだそうです。おもしろいことに、はじめのうちは、青は単に「暗い色」としか認識されず、そのため同様に黒に近い色として認識されていた「緑」との区別をするようになったのはずっと後のこととなったそうです。また、ブルーは「憂鬱」という意味で使われることもあり、暗い色のイメージも残っているようです。
 
 昭和のスクールカラーは、校旗の色がもともとの出どころです。自分が実際に見えている色と、他の人が見えている色は比べようがないので、どんな色なのかの説明は難しいのですが、昭和のスクールカラーは、校旗の地の色と同じ「スカイブルー」です。日本語では空色(そらいろ)。空色は、晴天時の空の色を示す明るく淡い青色のことで青と白の中間色を指しています。
 
(式典で掲げられた「校旗」)
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 「空」は「天」の意味も表します。「天」は「おおぞら」を表すと同時に、「天・地・人」のように用いられる「天」の意味、すなわち天地・万物を支配するものを表し、また、それらを支配する理法も表しています。このように考えると、校旗やスクールカラーのライトブルーは、地球やそこに住む人々を見下ろす高いところにある、万物を支配する道理を示しているとも考えられます。「真理の追究のために高みを目指して進もう」という、私たちの精進の姿の象徴と言えるのではないでしょうか。
 
 爽やかな空の色は、世界的に見ても一番人気が高い色とのこと。そして、青には冷静さを取り戻す心理効果があり、実際に青を見ると心拍数が下がるのだそうです。何かで怒りがこみあげてきた時には、是非、スクールカラーのスカイブルーを思い出すといいですね。