「学父の岩」と「学母の岩」 [2016年10月28日(金)]

 「校訓の巌」と呼ばれる創立者記念講堂の横にある青色の油石と同時期に運びこまれたのが、大学5号館の入り口右手に置かれている、「学父の岩」です。
 
(学父の岩)
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 そしてその右隣には、30トンの緑色の石があります。これは、学母人見緑先生の生まれ故郷、四国愛媛県産で、伊豫青石とも呼ばれている石です。

(学母の岩)
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 名前の通り晴れた日には緑色に、そして、雨に濡れると青色に輝き、模様も複雑に変化するように見えます。伊豫青石の産地には昔から有名なお寺も多く、きっと弘法大師や空海も、2億年近く前からさまざまな自然の力を受けて形成されたこの石の岩山を歩いて四国を巡ったのではないでしょうか。紀伊国屋門左衛門の屋敷を岩崎弥太郎が買い取って今は都立「清澄庭園」として開放されている回遊式林泉庭園には、全国から集めた伊豫青石等の名石が数多く配置されているそうで、この伊豫の石は数々の名庭にも景石として使われています。
 
 「学父の岩」と「学母の岩」のそばには、春を告げる梅の花も咲きます。また、二つの岩の前には、サツキが二株植えられていますが、これらはもともと校祖が鉢植えを購入して植えられたものだそうで、35年以上たった今ではしっかりと根をおろし、5月の声を聞くと、可愛いらしい花を咲かせます。サツキは「皐月躑躅(サツキツツジ)」とも呼ばれ、ツツジ科。旧暦の5月(皐月)に咲くことからその名がつき、俳句では「夏」の季語です。ツツジよりやや遅く咲き、6月の終わり頃まで、紅色、ピンク、絞りなどの少し小さめの花をつけます。
 
 学園のいろいろな場所に石や岩が配置されています。7人の妖精を探すのも楽しいことですが、さまざまな謂れのある石や岩を探して歩くのも楽しいのではないでしょうか。
 
(「学父の岩」と「学母の岩」の傍らに咲く梅)
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校訓の巌 [2016年10月21日(金)]

 創立者人見記念講堂の入り口右手に、大きな岩(巌)が置かれているのをご存じですか。キャンパスには何か所かに大きな石が置かれていますが、その中でこの石はもっとも巨大です。45トンもあります。45000キロですから、45キロの体重の人が1000人集まった重さですね。
 
(講堂前の校訓の巌)
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 これは学園創立60周年にあたる昭和55(1980)年に北海道日高山中から運ばれた青色の石です。北海道を代表する名石の一つで、神居古潭石(かむいこたんいし)が正式な呼び名のようです。庭石として全国的に名高いのは、大変に硬く、「油石」とも呼ばれ磨かなくても滑らかな光沢に富んでいる石だそうです。北海道、日高の変成岩層が石狩川の急流と交差することでこのような特別な石が形成されるとか。神居古潭石自体の色はさまざまのようですが、本学にあるのはスクール・カラーの青色で、特に雨に濡れた時のみずみずしい色は、素晴らしいものです。
 
 創立者人見圓吉先生が、記念講堂の前にいつも笑顔で、物静かにどっしりと座っていてくださる、そんな風情のある青い石。ここを通る時には、校祖の学園への祈りを思い出したいものです。

先哲の碑 [2016年10月14日(金)]

 本学が「昭和女子大学」となったのが、世田谷区太子堂のこの地に移転してから4年後の、昭和24(1949)年4月のことでした。その年の9月に校内に「先哲の碑」が建立され、さらにその後、昭和59(1984)年に創立者人見記念講堂とグリーンホールの間の場所に移したのが、現在の「先哲の碑」です。先哲の碑は、碑文にもあるように、創立以来、本学園の研究・教育・運営に尊い命をそそぎ、現在の学園の繁栄を築いてくださった方々の業績を顕彰し、感謝の気持ちを捧げるために建てられたものです。
 
(今年の先哲の慰霊祭の様子)
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 全学園参加で開催していた時代の体育祭で、学父人見圓吉先生が両手を大きく広げて児童・生徒・学生に応えているお写真がありますが、そのお姿にちなんで、ここで学ぶ者たちを両手で大きく抱いてくださるような形に作られています。先生の故郷である岡山県の赤御影石が使われています。今年も10月4日に全学園の代表者が碑の前に集まり、過去1年間に亡くなられた恩師の慰霊祭を行い、先哲をしのび、感謝の気持ちを新たにしました。そして、本学園のさらなる発展を誓いました。この行事は、毎年秋に行われ(今年は11月9日)、世田谷区若林にある松陰神社での恩師・同窓の墓への合祀慰霊祭の1か月ほど前に行われることになっています。
 
(創立50周年記念体育祭での学父 人見圓吉)
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International Campus Boston [2016年10月07日(金)]

 先日、本箱の整理をしていて、「Showa Campus Life in Boston」と題した冊子を見つけました。ボストン校が開学されたのは1988年。まだ「ボストン昭和女子大学」独自では留学ビザが出せない初期の時代、セント・マイケルズ・カレッジからビザを発行していただき、学生達も同大学で1週間寮生活をして学んでいた時代に作られた冊子です。セント・マイケルズ・カレッジは、カナダとの国境に近いバーモント州のウィヌスキーにあります。カトリック系の大学で、多くの外国人留学生を受け入れています。

 冊子の最後の数ページに、ボストン研修を経験し日本に戻った学生が書いた手記が掲載されていした。「(ボストンでの)一番の収穫は、限られた時間を悔いの無いようにすごし、その中で自分の可能性を見出し、新しい世界の中で真の自分を発見したことであった」という感慨は、その後にボストンで研修を受けたすべての学生や生徒にも共有され続けているのではないでしょうか。
 
(昭和ボストン全景)
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Moss Hill Dedication

Standing on this rise, Moss Hill, we have a view of the wide world.
On this hill, we will learn about this land, America.
On this hill, we will strive for the future of Japan.
On this hill, we will use our human potential to join East and West, Japan and the world.
Become women who dedicate yourselves gladly to the progress of humankind.

モス・ヒル宣言
モス・ヒルという名のこの丘の上に立って、広い世界を見渡し、
この丘でアメリカをまなび、
この丘で日本の未来を探り、
この丘で東洋と西洋、日本と世界の新しい融合点を発見するような人材となり
進んで人類の向上発展に貢献する女性となりなさい。

 これは、玄関ロビーを入って右手前に掲げられているボストン校開学の宣言です。ボストン校を訪れたことのある方は、きっと目にされたことがあるでしょう。

 ボストンは、アメリカ東海岸の北緯42度、日本の函館と同じくらいのイ緯度にあり、人口は約65万人ほど。東京には1,400万人近く住んでいることと比較すると、随分ゆったりとしていますね。時差はマイナス14時間(サマータイムはマイナス13時間)、日本からは往路13時間、復路15時間程度かかります。

 1920年に昭和女子大学の前身である日本女子高等学院が、教師5名と学生8名で創設されてから66年経った1986年にモス・ヒルの丘にボストン昭和女子大学を設立することが決定しました。1987年には、マサチューセッツ州知事からボストン昭和女子大学設立の認可を受け、1988年に開学。これまで約14,000名を超える、昭和学園の児童、生徒、学生、そして、他大学の学生も、ボストン昭和で学んでいます。

 呼び名も、開学当初のボストン昭和女子大学 (Showa Women’s Institute Boston)から昭和ボストン(Showa Boston Institute for Language and Culture)と変わり、現在は、インターナショナル・キャンパス・ボストン(International Campus Boston)と呼ぶまでに発展しています。なぜ、International Campusかと言うと、もちろん中心となるのはShowa Boston Institute for Language and Cultureですが、キャンパスにはその他にブリティシュスクール(British School of Boston)、ボストン日本協会(The Japan Society of Boston)、荒木バーカス日本文化センター(Araki-Barcus Japanese Culture Center)が置かれ、地域活動や文化活動が盛んに行われ、日本とボストンの交流の基点となっているからです。

 2008年、昭和ボストンは創立20周年を迎え、募金をつのって八重桜など100本に近い桜の苗がキャンパスに植えられました。若い桜の木は、少しずつ花を咲かせるようになりました。桜の名所として、地域の皆さんと共に春の始まりを楽しむことができるといいですね。

(昭和ボストンの学生寮前に咲く八重桜)
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昭和女子大の「昭和」とは? [2016年09月30日(金)]

 「昭和女子大学って、『昭和』の時代にできたので『昭和』という名前になったのですか?」と時々聞かれます。この質問にお答えするために、まず、本学の歴史を辿ってみたいと思います。

 大正9年9月10日に「日本女子高等学院」が東京都文京区に創設されたのが本学の始まりです。ここでは「昭和」の名前はありません。大正11年4月に、東京都中野区東中野に校舎が移転され、「附属高等女学部」が開設されました。さらに大正15年6月5日には、東京都中野区上高田に「日本女子高等学院」と「附属高等女学部」の校舎を移転。昭和2年7月29日には「財団法人日本女子高等学院」が設立され、その時に、附属高等女学部を「昭和高等女学校」と改めたのです。

(中野区上高田当時の校門)
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 その後、昭和20年4月と5 月に、戦災のため全校舎が罹災し、昭和20年11月9日に「日本女子高等学院」と「昭和高等女学校」は、旧陸軍近衛野戦銃砲兵連隊跡である世田谷区太子堂に移転しました。大学に「昭和」の名が付くまで、もう少し歴史が続きます。

 昭和21年4月1日に本学は「財団法人東邦学園」を併設し、その傘下に、「日本女子専門学校」を開校し、「日本女子高等学院」の課程を引き継ぎました。昭和22年4月には新学制の元、「昭和中学校」を開校し、23年4月には「昭和高等女学校」を「昭和高等学校」と改めました。大学に昭和の名前がつくまであと少しです。

 昭和24年4月1日に、新学制によって「日本女子専門学校」を「昭和女子大学」と改め、学芸学部を開設、さらに、昭和25年には短期大学部を開学。翌年の昭和26年に「財団法人東邦学園」も「学校法人昭和女子大学」と改め、「財団法人日本女子高等学院」も「学校法人昭和高等学校」(昭和38年 4月に本学が併合)と改めました。
 
(昭和女子大学開学当時の正門〈今の正門と同じ場所〉)
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 ということで、大学の名称は、大正9年「日本女子高等学院」、昭和21年「日本女子専門学校」そして、ついに昭和24年に「昭和女子大学」となったという訳です。

 さて、「昭和」の名称については、『昭和女子大学70年史』(p.253)に次のように書かれています。
 「教職員と学生から日本、富士、敷島、武蔵野、東邦、昭和と様々な名称が出され、活発な意見を交換した。この結果「従来の附属高等女学校の校名でもあり昭和時代に生まれた大学であるが、何よりも『昭和』」の中に含まれている本旨(百姓昭明 協和萬邦)が、新時代への脱皮と真の民主主義を象徴的に包含しているから」ということで「昭和女子大学」に決定した。」

 歴史的には、初めて本学園で「昭和」の名称が用いられたのは、昭和2年のことで、附属高等女学部を「昭和高等女学校」と改めた時です。この時、なぜ「昭和」としたか。前年に元号が「昭和」と変わったことや、後の大学の命名と時と同じように、孔子が編纂したとされる中国の古典『書経』の中の「百姓昭明、協和萬邦」が元となったのかもしれません。

 『昭和女子大学70年史』の記録から、大学や学園の「昭和」の名称は、「百姓昭明 協和萬邦」に由来していることが読み取れます。四書五経の一つである『書経』の初めにある尭典(伝説の王、尭(ぎょう)を讃えた文章)の一説、「九族既睦平章百姓 百姓照明協和萬邦」「九族(きゅうぞく)既(すでに)睦(むつ)まじくして、百姓(ひゃくせい)を平章(べんしょう)す。百姓(ひゃくせい)昭明(しょうめい)にして、萬邦(ばんぽう)を協和(きょうわ)す。」から引用されています。前半の「平章」はそれぞれの分を弁(わきまえ)ることを意味し、後半には、「百姓」(人々それぞれ)が「昭」(徳)を「明」(明らか)にすれば、「萬邦」(世界中)の「協和」(共存繁栄)がはかられる、と書かれています。「百姓昭明」の「昭」と「協和萬邦」の「和」で「昭和」となりました。ですから、「昭和」は「すべての人々が知徳を磨き、世界が共存繁栄するために互いに協力和合していきましょう」という意味になるのではないでしょうか。

 ところで、私の父は「明治」、母は「大正」、私は「昭和」生まれ。そして今は「平成」。「明治」は『易経』の「聖人南面して天下を聴き、明に向かいて治む」、「大正」も同じく『易経』の「大いに亨(政治)を正すを持って天のみちなり」、「平成」は『史記』の「内平かに外成る」と『書経』(偽古文尚書)の「地平かに天成る」がそれぞれ出典とされています。日本の元号の多くは中国の古典が出典の由来となっているのですね。「平成」の元号も既に江戸末期に「明治」と共に候補になっていたのだそうです。
 
(今の正門)
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スクールカラー [2016年07月28日(木)]

 夏らしい空が見られるようになりました。これから秋の終わりまで、晴れた日の空を見上げるのが楽しみです。夏は朝方、秋は夕方近くが良いでしょうか。青空を眺めていると、すごくスカッとした気持ちになりますよね。
 
 上空が高気圧に覆われると、空が晴れます。日本では、夏は太平洋側から、秋は大陸側から高気圧が移動してくるのだそうで、海洋で生まれた高気圧よりも大陸で生まれた高気圧の方が空気中に含まれる水蒸気の量が少なく、より高い上空からブルーの散乱光が地上に降り注ぐのだそうです。そのため、夏に比べると秋は、「空高く…」と言われるように、より空が高く感じられ、鮮明な青い空が広がっているように見えるのですね。 
 
(大学1号館9階から見る新宿方面の空)
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 昭和のスクールカラーがブルーであることは、皆さんもご存じのことと思います。『広辞苑』でblueにあたる日本語の「青」の意味を調べてみました。「色の名。三原色の一つで、晴れた空のような色。藍 (あい) 系統の色から、黄みを加えた緑系統の色までを総称する」と書かれています。「青色」といってもかなり幅が広そうです。「日本の色(伝統色・和色)Traditional Colors of Japan」には日本の青空だけでも428色も並んでいます。
 
 人類の祖先が誕生した頃、多くの動物が今もそうであるように、黒と白、つまり明るいか暗いかしか認知していなかったとのこと。人が最初に認知した有彩色は「青」と言われているのだそうです。おもしろいことに、はじめのうちは、青は単に「暗い色」としか認識されず、そのため同様に黒に近い色として認識されていた「緑」との区別をするようになったのはずっと後のこととなったそうです。また、ブルーは「憂鬱」という意味で使われることもあり、暗い色のイメージも残っているようです。
 
 昭和のスクールカラーは、校旗の色がもともとの出どころです。自分が実際に見えている色と、他の人が見えている色は比べようがないので、どんな色なのかの説明は難しいのですが、昭和のスクールカラーは、校旗の地の色と同じ「スカイブルー」です。日本語では空色(そらいろ)。空色は、晴天時の空の色を示す明るく淡い青色のことで青と白の中間色を指しています。
 
(式典で掲げられた「校旗」)
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 「空」は「天」の意味も表します。「天」は「おおぞら」を表すと同時に、「天・地・人」のように用いられる「天」の意味、すなわち天地・万物を支配するものを表し、また、それらを支配する理法も表しています。このように考えると、校旗やスクールカラーのライトブルーは、地球やそこに住む人々を見下ろす高いところにある、万物を支配する道理を示しているとも考えられます。「真理の追究のために高みを目指して進もう」という、私たちの精進の姿の象徴と言えるのではないでしょうか。
 
 爽やかな空の色は、世界的に見ても一番人気が高い色とのこと。そして、青には冷静さを取り戻す心理効果があり、実際に青を見ると心拍数が下がるのだそうです。何かで怒りがこみあげてきた時には、是非、スクールカラーのスカイブルーを思い出すといいですね。

望秀海浜学寮 [2016年07月22日(金)]

 房総半島の南端に近い館山市に望秀海浜学寮が開設されたのは、1986年の3月、ちょうど本学の女性文化研究所開設の1か月少し前のことでした。「房州」でなくて、「望秀」と書くのは、「秀(たか)き理想を望みつつ励む」の意味が込められているからです。

 「秀」の文字は、「禾(穀物の穂)」と「乃(なよなよする様)」の文字を組み合わせて作られたという説があり、その説によれば、穀物の若い芽が伸びる様子を意味していたそうで、そこから「すらりと高く穂や花になる芽が出る」、「すらりとぬきんでた穂」「すらりと高く出る」「ほかの人よりすぐれる」ということを表し、「秀でる」とか「優れる」という意味になったということです。ですから「秀き」と書いて「たかき」と読むのは、少々苦しいかもしれませんが、本学で学ぶ者へのに「秀でた理想を望みつつ(目指して)、学生生活に励んで欲しい」という呼びかけの気持ちを表した名称なのです。
 
(望秀海浜学寮の建物)
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(望秀海浜学寮から見る那古の海)
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 本学を卒業してすぐに昭和女子大学附属中高部でしばらく教鞭をとりましたが、その後アメリカに留学、修士が終わって中高部に戻ったのが1977年でした。その年に東明学林が出来ましたから、私が大学生の頃は、茅ケ崎海岸にあった湘南学寮や大磯にあった鴫沢学寮で学寮研修を経験しました。多分、1週間~10日間の宿泊研修で、はっきりと覚えていないのですが、夕食も交替で学生が調理したように記憶しています。鴫沢寮での学寮が終わると、帰りには西行饅頭をお土産に家に持ち帰るのを両親も楽しみにしていましたし、湘南学寮では、海岸散歩と称して茅ケ崎の高級住宅地にある有名な俳優や歌手の家を皆で探すのも楽しみでした。
 
 さて、話を基に戻すと、望秀海浜学寮ができる以前から、中高部では千葉県館山市那古の数件の宿に分泊して研修をしました。研修中に必ず船形の灯台をめざして鏡ケ浦の海を泳ぐ遠泳と、那古観音での盆踊り大会がありました。望秀海浜学寮が建つあたりは、戦国の武将・里見氏を題材に書かれた滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」ゆかりの地で、盆踊りで観音様の境内に集まると、必ず、南総里見八犬伝の話を聞いたものでした。そして、那古観音から見下ろす船形、館山の町の夜景の美しさは今でも心に焼き付いています。もう一つ必ず海浜学寮で行われた行事が、後に昭和の寮が建つという広大な土地の草むしりでした。私は中学校から昭和に入り、中1から高2まで毎年、そして、高3でも中央委員として下級生のお世話をするために夏季寮に参加したので、6年間、麦わら帽子をかぶり太陽がカンカンと照る中で草むしりをしました。でも今では、友達と一緒に作業をしたことが楽しい思い出となっています。学生の皆さん、私たち先輩が汗を流しながら草むしりを何年も続けてできた望秀海浜学寮です。是非、東京のキャンパスではできない活動を取り入れて、有意義に過ごしてください。
 
(望秀海浜学寮に咲くオオマツヨイグサ)
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 そういえば、夏季寮の楽しみを、もう一つ思い出しました。オオマツヨイグサの花が夕方にポッという音を立てて開くのを聞くことです。海岸からの帰寮の順番が最後になり、日が落ちかけてから旅館まで歩いて帰る途中で、小さくポッという音を立てて開く黄色い花を見つけて感動しました。学園のキャンパスのところどころにも、オオマツヨイグザが咲いています。夜に花が開くと次の朝には萎んでしまうので、自宅で咲かない限り、なかなか音を聞くのは難しいかもしれませんね。

トルストイの『アーズブカ』 [2016年07月15日(金)]

 「アーズブカ」はロシア語でアルファベットの「A, B, C」の意味です。この本はロシアを代表する作家レフ・トルストイ(1828年~1910年)がまとめたものです。トルストイの創作によるお話と、イソップの寓話や古い諺などをもとにしたお話が書かれています。
 
 トルストイは伯爵家に育ち、広大な領地で農民達が働いていました。農民の多くは、文字の読み書きも、計算もできない人が多かったので、トルストイは、農民の子供たちを自分の屋敷に集めて、読み書きを学んでもらいたいと考えました。これがトルストイの学校の始まりです。今から170年近く前のことです。ちょうど日本に初めて小学校が生まれた頃にあたります。子供たちの数が増えると、やがて教室を別棟に作るまでになりました。そしてトルストイは教科書として使うために、少しずつ色々なお話を書きためていったのです。

 というわけで、「アーズブカ」は子ども用の読み書きの教科書として作られましたから、あまり深い意味のある話は入っていないだろうと思うのですが、然にあらず……なのです。
  
(「トルストイのアーズブカ」)
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 本学の現代教育研究所のトルストイ研究グループでは、「アーズブカ」の中から130話程を選んで日本語に翻訳してまとめられた『トルストイのアーズブカ 心をたがやすお話』の読書会をしています。この翻訳本は、国立トルストイ博物館館長のレーミゾフ教授が編集したもので、日本トルストイ協会の初代会長で本学の第2代理事長であった人見楠郎先生が監修出版されました。エー!大人が読むの?と思う方もきっとあるでしょう。ちょっと、次の短いお話を読んでみてください。
 
〈小鳥とたね〉
 えだに小鳥がとまっていると、下の草むらにたねがありました。小鳥が言いました。
 「ようし、わたしが食べてしまおうっと。」
 たねに向かってとんでいくと、わなにかかってしまいました。 
 「どうして、こんなことに?」と小鳥は言いました。
 「オオタカは鳥たちを生きたままつかまえても、なんともないのに、わたしのほうは、ひとつぶのたねのために身のはめつだ。」
 
 子供たちはこの話を読んで、どんなことを考えるでしょうか。
 
「小鳥が種を食べるのは、生きるために必要なこと。落ちている種を食べようとして罠にかかったということは、誰か人間が小鳥を獲ろうと思って罠を仕掛けたに違いない。人間はどうして罠をしかけたのだろう。せっかく種を実らせ、次の収穫の為に備えているのに、それを横取りした小鳥が悪い?」
 
「罠にかけなくても、他に小鳥を追いやる方法があったのでは?」
 
「小鳥は罠が仕掛けてあることを知らなかったので、こんな羽目にあったのだから、無知な小鳥が悪い?」
 
「無知なものは損をするということか?」
 
「罠にはまった小鳥は、どう思ったか? オオタカは生きた鳥を捕獲して食べてしまうのだから、自分よりもずっと罪は重いはず、と考えたのだろうか?」
 
「罪の重い、軽いは何を基準に決めるのか? 小鳥は一粒の小さな種を取っただけだが、オオタカは生きた鳥を捕えた。双方共、横取りには差がない。オオタカは猛禽類の一種。食物連鎖の頂点、つまり一番強い鳥であるはずだ。例えば、バッタが草の葉を食べ、小鳥がバッタを食べ、オオタカが小鳥を食べる。これは自然の仕組みと観念しなければならないことなのか?」
 
「連鎖の下位にあるものほど体が小さくて、その数も多いからオオタカに小鳥が食べられるのは、自然の理に適っているのでは?」
 
「良く考えると、食物連鎖の頂点にいるオオタカでさえも、もっと大きな力を持ったものに襲われる? だって、オオタカは絶滅危惧種……」
 
 と考えれば考えるほど、大げさのようですが人間も含めて、私たちが生きている世界の途方もない大きな仕組みにまで考えが及んでいきます。
 
 ところで、宮崎駿監督の「となりのトトロ」の「トトロ」はオオタカがモデルとのこと。絶対にオオタカは絶滅させたくないですね。私たち地球上に住んでいる人間も、宇宙という大きな生命体の中では、ほんの小さな小さな存在にすぎないのかもしれませんね。

光葉の大樹 [2016年07月08日(金)]

 創立者人見記念講堂の第一緞帳は「躍動する光」というテーマで制作された作品であることを以前お話しました。そこには、霊峰富士、箱根の山、伊豆の海のはるか上空に、躍動するオーロラの光を受けて、3名の女性が世界に羽ばたいていく姿が織られています。

 第二緞帳は「光葉の大樹」がテーマです。1980年の学報4月号には、そこに織り上げられている景色を「ほのぼのと輝き初める曙の薄桃色の空には無限の希望がひそみ、大地に根を張った大樹にはたくましい力量感がみなぎり、光輝く緑の若葉の群れには友情の温かさがあふれ(後略)」ている、と紹介しています。「光葉の大樹」は、無数の木の葉を手作りで制作し、それを緞帳に縫い付けて完成したもので、こうした制作法で、しかもこんなに大型のものは全国にその例を見ないのだそうです。

 1978年の9月に緞帳制作委員会が発足して準備を始め、1979年8月1日から9月12日までの40日間、ほとんど毎日のように木の葉の刺繍が進められたことが、『昭和学園のこころ-創立90周年に寄せて-』(2011年 学園連携委員会)に環境デザイン学科の谷井教授が詳しく書かれています。この冊子は図書館にも収められていますので、是非、皆さんご覧下さい。刺繍の参加者は1,500名、刺繍する予定の木の葉の枚数は1,050枚ありました。私も一枚を刺繍しました。夏休み中のとても蒸し暑い温考館(現在の学園本部館のところにあった)の2階に同窓生がたくさん集まり、四方山話をしながらも作業の手は緩めることなく、一針一針、とても丁寧に刺繍していきました。私は、完成した緞帳の中から自分の葉が見つけ出せるようにと、葉の先が裏返っているものを選んだため、葉の表面と裏面の部分の刺繍糸や刺繍の方向が違っている上に、1枚の葉の大きさも思ったより大きく、仕上げるまでになかなか手間がかかったのを覚えています。

 記念講堂の竣工式で、第二緞帳の「光葉の大樹」が下ろされた瞬間は、本当に感激でした。そして、自分の刺繍した葉を探したのですが……出来上がった緞帳を見ると、1,050枚の中には葉先が裏返っているものが何枚もあり、私が刺繍したのではないかという候補は数枚まで縛ってはみたのですが、とうとう自分の葉は発見できずに終わってしまいました。実は、今でも、私が刺繍したのはどの葉だったのか確証がありません。でも、どれも立派な大樹の一葉として、人々が憩える場所を織りなしていることに、とても満足しています。
 
(第二緞帳「光葉の大樹」)
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 ところで、この光葉の大樹は、光葉同窓会のシンボルマークにもなっています。平井聖名誉学長が同窓会からの強い要望を受けて作成してくださいました。同窓会旗、バッグ、一筆箋、絵葉書、など、色々な所にこのシンボルマークが使われています。大樹は大学。その幹は大地からの栄養分を、学科・学年という枝を通して、在学生にも卒業生にも提供し、その下には、いつでも誰でも疲れた時に憩うことのできる場所を作っています。
 
(光葉同窓会のシンボルマーク)
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カルガモ親子 [2016年07月01日(金)]

 創立70周年を記念して造られた日本庭園「昭和之泉」。毎年、カルガモ親子の姿が見られるのを心待ちにしている方も多いことでしょう。カルガモは渡り鳥ではないので、1年中日本にいますが、移動はするのだそうで、昭和で生まれた雛が成長して必ず昭和のキャンパスに戻るという訳でもないようです。

 カルガモの親は5~8月に水辺の草むらに巣を作り、卵を産むと2~3週間程じっと卵を抱きます。雛が孵ると、その日のうちか翌日には全部が母親の後について巣を離れるそうです。その理由は、親が巣に餌を運ぶことがないためで、多くの場合は水辺の食べ物のある所に雛を連れ出します。運が良ければ、ちょうどその頃、カルガモのかわいらしいよちよち歩きに遭遇することが出来るのですね。雛は、はじめはまだ飛べないので、水上にいれば少しは安全ですが、カラス等に襲われることもあり、昭和之泉近辺で生まれたカルガモの雛も何回か被害に遭っています。そういう訳でカルガモの親子は、いつもキャンパス内の同じところにいるとはかぎらず、昭和之泉の光葉庵の裏にいたり、3号館の前や旧体育館前に現れたり、と神出鬼没です。
 
(昭和之泉のカルガモ※昨年のもの)
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 東京大手町の三井物産本社近くの人工池あたりの再開発のために、それまで毎年話題となっていたカルガモの雛のよちよち歩きのニュースを聞かなくなって久しいのですが、2020年にはそのあたりの再開発が完成し、2021年には、カルガモが憩える新しい池も整備される予定だという報道が最近ありました。近くの公園や小川に移転していたカルガモもきっと戻ってくれることでしょう。
 
 ところで、カルガモはどうして1列に並んで母親の後を歩くのだと思いますか。面白いことが分かりました。まず、生まれたらすぐに雛が親鳥の後について歩くのは「インプリンティング(刷り込み)」のためです。これは、動物の成長過程のある時期に、特定の物事が短時間に覚え込まれ、それが長時間持続する学習現象のことを指します。カルガモの雛も、生まれてすぐに見たもの、動いているもの、そして、音を出すものの後を追って行くという追従反応と呼ばれる行動をとるそうです。こうして、生まれてから1か月間位、母親について歩くことで、エサの食べ方や危険から身を守る方法を学ぶのだそうです。さてそれでは、なぜ1列で歩くかというと、それは本能的にその方が安全だからだとか、横から外的が来ることを想定していないからだとも考えられています。ガンの仲間の雛は、カルガモのように一列になって歩く習性を持っているようですが、その順番は決まっていないとか。体力のある雛や注意深く母親の行動を見ていて素早く動きの変化を察知できる雛から順番に、親の後ろに付いて歩くのではないか、と説明する人もいます。
 
 そういえば、列の後ろの方を歩く雛たちは、「迷わないでちゃんとついていけるかな?」と心配しながらそのよちよち歩きの行列を見守った経験のある方が多いのではないでしょうか。昭和乃泉やその近くのキャンパス内で、今年もカルガモの親子の行進が見られることを皆さんと一緒に楽しみに待ちましょう。